小学一年生

今日は12月3日火曜日だが、今は午後5時半なのでもはや外は真っ暗である。先ほど床屋から帰って来たばかりで、書斎のパソコンの前に座っている。午前中は市の教育センターに協力して学校訪問をし、帰宅して授業のコメントを書いてメールで送った。午後はいろいろな雑用があって今に至っているが、時間は平等に経っているが、人間の意識の上では早い場合もあれば遅い場合もある。いつも思うのだが、今日は小学校を参観したが、子供は天真爛漫で何も屈託がなくのびのびと学校生活を送っているように見える。特に今日は小学一年生だったので、子供とはこんなに素直だったのかと思う。小学生も高学年になるとだんだんと自我に目覚めて、自己主張したり競争したり喧嘩したりするようになるのか、人が辿る成長とはそういうものらしい。小さい時は何の悩みもなく、毎日が毎時間が新しいことの出会いで嬉しいのかもしれない。それでも生きている限りはそれなりの波があって、子供なりに努力をして乗り切っているのだろう。確か昔読んだ李香蘭の自伝小説に、大人から見れば小さなことだが、子供にとってみれば重大事で不幸な出来事だと書いてあった。どんな出来事か忘れたが、友達との約束だとか文房具だとかおもちゃだったか、そのようなほんの些細なことが子供には大きな不幸がやってきたと深刻に思っていたらしい。自分が今日訪問した小学校は田園風景豊かな市内の外れにあったせいか、子供たちが昔と変わらぬ姿に見えた。周囲は畑で囲まれており、たくさんの実をつけた柿の木があって、校内にも雑草と草木がいっぱいで先生と子供たちで枯れ木を取ったりして学校園をきれいにしていた。それは自分が子供の時と変わらない学校風景だった。日本の学校も少子化が進んできたので、特に農村地帯に行けば昔と変わらない学校文化が根付いているが、その桃源郷のような学校であってもいろいろな問題はあるだろう。子供の純粋さがそのまま成長して大人になってほしいと願うのは、大人の夢である。いろいろな波がやってきて、中学生や高校生になればそれなりに悩むこともあるだろう、大人になって仕事に就けばさらに大きな波がやってくる。それでも今日訪問した小学一年生の姿は、見ているだけでこちらの心が洗われる。新聞に、「福耳じゃ」秀でたところなき吾をほめて見つめた母恋うる夜(上柿貞芳)の句があった。母親とは、どんなことがあっても我が子の最大の味方であり理解者である。大人になって色々なことに出会って自信をなくし自分はなんと無能なのかと思う時でも、この短歌のように母を想えば救われる。今日出会った小学一年生よ、どんなことがあっても大丈夫、くじけちゃいけないと、平凡な言葉を自分の心の中でつぶやいた。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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