今日は金曜日の夕方、というより書斎の窓から見れば外はもう真っ暗な夜である。今日から11月、あっという間に今年も後2ヶ月になった。今年のお正月は何をしたのだろうか、もう10ヶ月も過ぎたのかと思うと、夢でも見ていたのかとさえ思う。毎日何事もなく過ぎていけば平穏なのだが、それは嬉しいような嬉しくないような、退屈なような退屈でないような気がするのは、自分にもまだエネルギーが残っているからだろう。昨日は都内で小学校の授業を参観し、その後のシンポジウムでコメントをしたり感想を述べたりしたので、一応自分の役目は果たした。ただ若い頃のような感じ方と昨日では少し違うようだ。年を取ったのだから当然だと思うが、何と表現していいかわからないが、今は話の勢いが弱くなった。若い頃は、周りの評価もあまり気にしないで前だけを見て進んでいたような気がする。そういえば学会では赤堀節などと呼ばれていたようだが、自分は人前で話すのはあまり好きではなく得意でもない。なぜか思ったことが素直に思った通りに言えないのだ。話している間にいろんな雑念が浮かんできて、それが急に口に出るものだから、文脈が途切れて、たぶん聞いている方はおかしいと思っているに違いない。話が終わった後、自己肯定感が下がるのである。ただ関係者は、忖度しているのか気を使っているのか褒め上手なのか、自分が喜ぶような感想を言ってくれるのだが、自分では役目をあまり果たしていないような気がする。そんなことを考えると毎日落ち込むことになるので、うまくいくこともあれば、そうでないこともあると、自分で自分に言い聞かせている。多分誰でもそんなことを思いながら、毎日を過ごしているのかもしれない。自分の弟子や知人も、先生みたいに生きてみたいと言われることも多いのだが、社交的なお世辞かと思っていたが、どうもそうでもないらしく、傍目から見ると自分は好きなように生きて、落ち込むことはないと信じているらしい。しかしどんな人も必ず浮き沈みを感じながら、自分はダメだと思ってみたり、今日はうまくいった、まんざらでもない日もあるのかなどと思ってみたり、誰でも同じなのだ。今日のように平穏無事で静かな夜を迎える時ですら、これでよいのかと自分に問うのだ。文脈は離れるが新聞に、一つ置くグラスの中の秋灯(小町季生)の句があった。ウイスキーだろうか、飴色の液体がグラスの中を彩付けして、透き通った角氷が表面に浮かんでいて、飲むたびに角氷のぶつかる音がして、それを眺めていると今日はどんな日だったかと、自分と話をしているような気がする。この句を読むとそんな想像をしたくなる。グラスの中に天井にある電燈が映っているのかもしれない。自分もお風呂から上がって、毎晩晩酌をしているが、ほとんどオンザロックと水割りのウイスキーである。日本酒があまり飲めないからだが、小さな酔いが疲れを癒してくれる。この作者は自分と同じ自宅なのだろうか、あるいは高級なお店なのだろうか、どちらにしても人は夜になると嬉しかったことも切なかったことも、晩酌の杯を友にして、秋の夜長を感じながら自分と語るのだろう。
