所沢祭り

今は土曜日の夕方、ブログを書く時刻になった。書斎の窓から見える南向きの空は、さわやかな秋空とはこのことかと思えるような、絵に描いたような美しい光景である。南側にはマンション群がそびえていて、その手前の方に2階建ての住宅群が見える。住宅群とマンション群の間に、小さな川が流れていて、そこに鴨がよく来る。今朝はなぜかアオサギが住宅の屋根に止まって、まるで日向ぼっこでもしているようだった。このブログでも何度も書いているように、その小川に橋が架かっていて、橋を渡ると小さな社があって、自分もその前を通るときは、お辞儀をしたり手を合わせたりたまにお賽銭を入れたりする。その横に大きなスーパーマーケットがあって、大勢の人たちが買い物をしている。屋上に駐車場はあるが、社の横のスペースは駐輪場になっている。この社には弘法大師が祀ってあり、すぐ側に弘法の井戸と呼ばれる歴史的場所がある。誰も見向きもしないような井戸だが、そのいわれを書いた説明書きが立っている。自宅から2分もかからないので、スーパーマーケットは台所の食材保管庫、社は仏壇代わり、小川は散歩コースと考えれば、なんとなく殿様のような気分になる。先ほどスポーツジムから帰ってきたばかりである。休日はできるだけ体を動かし、体調を整え健康を維持したいと心得ている。だからこの3連休はすべてスポーツジムに行きたいと思っている。ただ明日は所沢祭りなので、祭り見物の後ジムに行くつもりだ。今日スポーツジムに行く途中、すでに町内会の山車が、あちこちの広場に出ていて、お祭り気分を匂わせている。明日は、久しぶりの大祭りだと聞く。人だかりで歩くのも苦労するような混雑だが、生ビールを片手に唐揚げか何かを食べながら、祭り気分を味わいたい。できれば明日は、重松(じゅうま)流太鼓の響きを聴きたい。コロナ以前は、いなせな若い衆が、いきなバチさばきで、まるで歌舞伎役者が演じているかのようなパフォーマンスをよく見た。太鼓の音が笛の奏でる曲によく合って、観客のお腹にずしんと響いてきた。明日はそんな楽しい一時が過ごせるだろうか。かつては家内も着物の着付けを手伝っていたせいか、踊りにも参加して目抜き通りを練り歩いていたが、年のせいでずいぶん前から出ていない。年月が経ったのだ。年寄りはそれなりに楽しめばよいだろう。文脈は離れるが新聞に、強き日も弱き日もあり秋桜(小俣友里)の句があった。ピンク色をした可憐な秋桜の花は、どんな日でも美しく咲いて、人々の目を楽しませてくれる。コスモスの英語は、宇宙でもあり、すべてを統一する意味も含まれると聞く。明日の所沢祭りは、老いも若きも、男も女も、お金持ちもそうでない人も、幸せな人もそうでない人も、抜けるような秋空の元で、江戸時代から続くお囃子や太鼓や踊りを楽しみながら、一時を過ごせばよいのだ。それは昔から庶民の娯楽として引き継いできた、この世を生きるための先人の大切な知恵である。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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