我慢をしなくてよい

今日は土曜日の夕方、通常ならスポーツジムに行って、爽快な気分になってブログを書くのだが、今日は少し違う。スポーツジムに行っていないのである。年をとると、小さな病気でも回復するには時間がかかる。今日かかりつけの医者に行って診てもらったら、良くなっているのでほぼ正常だというお墨付きをもらったので、安心して仕事ができる。ただ草刈りとかスポーツジムとか激しい運動は、やはり控えた方がいいだろうと考えて静かにしている。およそ1週間ウィルス型胃腸炎に苦しめられた。夜中にお腹が痛くて目が覚めて苦悶するのはもうごめんである。そのときに痛み止めの薬を飲めば30分もすれば効き目が出てきて安らかに休めると処方箋に書いてある。ところがそこが自分の強情なところで、痛み止めは健康な体を傷つけるというあまり意味のない理由で、止めていた。第一に健康な体ではないのだ。しかしその気持ちはなかなか伝えにくい。どんな状態であったとしても、自分の体は正常でいてほしい、外部から体にじわじわと有害物が溜まるような処置はやりたくない。しかし痛いものは仕方がないではないかという思いと戦っていたような気がする。はじめの三連休はどうしても仕上げておかなければならない仕事があって、机のパソコンと横のベッドと行ったり来たりした。格闘の3日間であった。自分が出なければならない重要な役員会があった。辛そうな顔をしていては理事の皆さんが心配する。全く何事も無いような顔をして、予定どおり仕切った。自分がホストとして定例的に行っているイベントも、痛みのことは忘れて夢中で取り組んだ。定例の学校訪問とその評価の仕事は、いつもどおり実行した。振り返ってみると何も変わってはいなかった。これで良かったのだ。そして今日、神と仏からお許しが出たのだ。これでいつものように前に向いて進んでいける。考えてみれば仕事のおかげで痛みも忘れ、これまでの自分を維持できる。痛み止めは飲みたくないという気持ちは、自分の矜持というか、どこかで聞いた、それは依存するかもしれないからという言葉を覚えているからだろう。今振り返ると本当に良かった、自分のぶざまな姿を見せることなく、自分らしく色々な仕事をして今日元に戻ったということは、本当にありがたいことなのだ。文脈は離れるが新聞に、江戸川の流れに向かひトランペット吹く青年は礼儀正しき(青木作郎)の句があった。よくわかる。背筋をピンと伸ばしてトランペットを吹いている様子は、確かに礼儀正しく、見る人の心を引付け一瞬爽やかな風が通り過ぎたような感覚を覚える。本人は多分そんな意識はなく、トランペットを吹くという行為そのものが、姿勢を正すことに直結しているのだが、外から見ると青年の気持ちはわからなので、見える姿から、この青年は何の迷いもなく前に進んでいくのだろうと推測する。昨日の理事会で、冒頭大谷投手の偉業をたたえるメッセージを送った。日本人としてこんな嬉しいことはない、などの平凡な挨拶だが、参加している役員の皆さんは、一昨夜も腹痛の苦しみで何回も寝返りをして寝れなかったとか、昼間は混沌として少しも働かない頭を使って書類を見ていたなどの困った話は、同情を買うかもしれないが生産的な話ではない。古い諺のように、顔で笑って心で泣いて、というように、世間を渡るには、どこかで我慢をするしかないのかもしれない。しかし最近年を取ってきて、もう我慢をしなくてよいのではないかと思うことがある。特に若い人や子供に対しては楽をして構わない、今の苦しさから逃げれば良い、と自分の信条が変化している。昭和の時代の生き方と令和の時代の生き方は、違って当然なのである。多様性が求められる時代である。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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