小さな存在感

今日は月曜日の夕方、昼間のあれほど突き刺すような日差しが、かすかに衰えて窓から見える空の景色は優しい暑さに変わった。月曜日にブログを書くのは、明日火曜日の夕方、都内で研究会と懇親会があって、午前中も午後も一日詰まっているからである。前のブログでも書いたように、昨日一昨日は都内で合宿があった。こんな風にブログを書いていると、毎日何かしらの出来事があって、自分なりに努力はしているつもりでも、年齢と共に体力も気力も能力も多分下がっていくのだろう。それでも働き盛りの先生方と議論していると、自分の脳が刺激されて、新しい知が生まれてくるような気もする。知は決して自然発生することはなく、他と関わることによって変容したり、化学反応のように別の知が生成されるようだ。そんな時自分を見返すことができて、萎れかかった葉っぱや花が新鮮な水を浴びて背伸びをするように、生き返るような気がする。自分もまだ新しい視点も持っているのか、このアイディアも少し面白い、自分もまだ多少は役立っているのかと、子供が目を輝かせるような小さな自信が起きてくる。両親の遺伝なのか、自分はどこか自己肯定感が低く、不安になったりすることもあるのだが、合宿でいろいろ話をしているうちに、他の人はこんなふうに考えていたのかなどと、改めて気づくことがある。合宿なので、どこか裃を脱いで本音で語ることがある。特にアルコールが入った懇親の席では、無礼講で話がはずむ。私のことだが、先生と話していると元気が出るとか、良いことが起きるような気がするとか、先生のツキをもらいたいとか、ブログで書くと気恥ずかしいのだが、そんな言葉を聞いて、恐縮しながらも自分も少し嬉しくなった。自分のことは自分では本当に分からない。そんなふうにして合宿が終わり、多くの心のお土産をもらって帰宅した。いくつになっても何かにお役に立っていると思うと、生きている甲斐がある。それは存在感とも言えるし、自分の存在に意味があることだろう。プレゼンス理論という考えは興味深く、かつて研究したこともあるが、このブログで言う存在感とは、ニュアンスが違う。今の自分が存在していて、それが縁の下の力持ちや隠れた存在であったとしても、何かに役立っていれば確かに自分の存在に意味がある。つまり小さな存在感と言ってもよいが、プレゼンス理論の方は、どちらかというと華やかでオーラがあって、その存在を周囲に振り撒くような積極的で大きな存在感のようだ。ほとんどの人は、多分小さな存在感を持って生きているのだと思う。そして日が暮れて一日が終わる時、今日も生きている意味があったと思って、肩の力を抜くのだろう。新聞に、ステテコでビール飲む父遠くなり(中田やす子)の句があった。まるで自分のことを詠んだ句のようで、どこか昭和の時代の男の姿を連想する。昭和は遠くなりにけり。これから夕食で、今日の自分の存在を振りかえろう。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す