清と濁

今は火曜日の夕方、にしては少し早い時間だが、夕方から夜にかけてオンラインの会議が入っているので、今の時間にブログを書くことにした。と言っても取り立てて公開するほどの内容はないので、一日を振り返って気づいたことを綴ってみたいと思う。学校は夏休みなので、自分の気持ちもまた、夏休みのような風に吹かれればふらふらと揺れ動く葉っぱのような気楽さがある。自分の今の職場はこの書斎と言ってもいいだろう。それでも平均すれば、週一回ぐらいは都内に出かけて、諸々の仕事をこなしている。今日は比較的時間が余っているので、午前中は資料作りをして、午後は私的な用事で駅前に出かけたが、いずれも小さな出来事である。自分がテレビを見る時間は、昼食の時間と夕食の時間なのだが、今はオリンピックの報道で画面が賑やかである。男子体操団体が金メダルに輝き、歓喜と涙が入り混じった感動的なシーンが放映されていた。選手たちが力の限りを尽くす競技には、誰でも釘付けになる。結果が分かっていても、自分もハラハラドキドキして画面に魅せられる。その光景は、目の前の競技に向かって夢中になって取り組んでいる選手の姿であるが、それがこの上なく魅力的で、ああ良かったとか、うーん残念と叫んでみたり、テレビ画面を見る自分もまた手に汗を握っている。なぜだろうか、たぶんそれは純粋だからだろう。競技をする瞬間は、そこに損得勘定や人間関係のわずらわしさなど入り込む余地など、一切ないからである。人は純粋なものに触れると、理屈抜きに心が洗われる。幼子を見ると、誰でも心が安らぎ優しくなれる。しかし、この世の中はそのように純粋にだけ生きることが難しく、さまざまな障害物が入ってきて問題を複雑にする。そのたびに人は眉間にしわを寄せてもがくことになる。もちろんオリンピック選手は想像できないほどの壁を乗り越えているので、超ハードな世界であることは間違いないが、それは世間の仕事の厳しさとは、質的に違っているだろう。新聞に、絵の具セットをじわじわ汚してしまうように職場を家を生きるしかない(からすまぁ)の句があった。歌壇の選者は、この絵の具セットのように、生きることもまたきれいごとでは済まされないと、評していた。仕事のことでも家庭のことでもその他もろもろすべてにおいて、純粋には生きれず、きれいごとではない汚れがついてくるのである。それが人の生きざまだとすれば、きれいに生きたいと思いつつも、汚れてしまう自分を許すしかないのだ。絵の具セットを絶えずきれいにしておきなさいと、言うこともできるが、それは理想かもしれないが現実ではない。否、理想でもないのだ。単に表面をきれいにしただけに過ぎず、真実の姿ではないだろう。とすれば絵の具セットが汚れていくように、自分もまた汚れていくかもしれないが、それが世の中を生きていく証拠なのかもしれない。清濁併せ呑むという言葉があるが、年を取ってくると清と濁の両方を認めるようになる。自分もそうなりたい。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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