今は土曜日の夕方、いつものことだが、今日や数日間を振り返ってブログを書いている。今日の天気は一日中晴れていたので、外は相当暑いと思ったが、それほどでもなかった。爽やかな風が心地よく、猛暑ではなく快適な天気だった。いつもの通り、土曜日の午後はスポーツジムに通っていて、帰宅してブログを書くのが自分の宿題になっている。今日は午前中に論文を書いていた。事情を話すと長くなり、また公開するほどのものでもない。ただ自分とすれば、ここはどうしても書いておかねばならないという、自分自身への使命というか、約束というか、矜持のようなものだろう。毎日少しずつ資料を整理したり図表を書いたり文献を読んだりしながら、今日でようやく見通しが立った。どんな仕事も同じだと思うが、始めは混沌としていて玉石混交で、どれも同じように見える。やがて理由はわからないが、なんとなくキラリと光る玉とその他大勢の石の見分けがついてくる。そして玉を中心に石もつながって、一つのストーリーが浮かんでくる。それができれば、後はまっすぐな道で迷うことはなく頂上を目指せばよい。始めは、ねばならないという、自分への戒めというか、枠をはめるというか、肩を怒らせたような気持ちだった。しかし論文などというものは、誰かに言われて仕方なく書くものではなく、当たり前だが、自分の考えというより、もっと強い信条のような熱意に駆られて筆を運ぶのではないかと思う。だから論文はまったくの自分事なのだ。つまり他の誰にも指図されず、左右されない自分の意のままに文章を綴っていく、自由な作業ではないかと思う。気負っていた自分ではなく、自由に世界を動き回る自分が、今の姿であろう。これは多分論文に限らず、自分が手がける仕事は、このように変容していくものではないのか。始めは大変だ、どうしようか、もしこうなったらとても対応できないなどと壁ばかりを考えて、その中に自分を押し込んでいるのだが、仕事が進行していくうちに、それらの壁が取れていき、その壁の向こうに自由に羽ばたくような世界が見えてくる。だからすべてのものは、予測ができないのかもしれない。文脈は離れるが新聞に、棒を持つ小石を拾う葉をちぎる頂上目指す子らの遠足(臼井正)の句があった。小学校の遠足を思い出す。棒を持ってあたりかまわず叩いてみたり、気に入った石を拾ってみたり、まったくの自由である。だから楽しい思い出として遠足を記憶しているのだろう。論文も形が整うまでは頭をひねって考えているが、見通しが立ってこれはオリジナルだと信念のような気持ちが出てきたら、頂上はもう近い。そして楽しい思い出として脳に記憶されていく。誰でも同じだが、自分の論文は決して忘れることはない。それは多分苦しさよりも、楽しい思い出として、自由に羽ばたいた足跡として、どこか誇りを持って自分の矜持として大切にしているからかもしれない。
