専門と雑用

今は火曜日の夕方には少し早い時刻だが、ブログを書こうと思う。夕方にオンラインの会議に参加しなければならず、その後に時間が取れず今の時間にシフトしている。いつものことだが、ブログには平凡な毎日の出来事を書くしかないので、面白いネタはあまりない。こんな時、新聞記者の気持ちが少しだけわかる。何か読者があっと驚くような面白いネタはないかと、2人の新聞記者が雑談している光景に、もう何十年も前に出会ったことがある。つい先ほど、会計士からの依頼で税務署への振込用紙の書類とか、団体理事会の議事録署名のサインとか、およそ面白くない事務処理をしていた。これを通常、雑用と呼んでいるが、なぜ面白くないのだろうかとふと考えた。そんなつまらぬことを考えて、お前は暇なのかと言われそうだが、事務職の人はこれが面白いのだろうか、それともやはり面白くないのだろうか。企業の経営者の方とも付き合うことがあるが、自分にとってはあくびを噛み殺すのに精一杯なのだが、貸借対照表は彼らにとっては、生きている数字であって、とても退屈するどころではない。面白いか面白くないかは別として、真剣に見る書類だということは、人によって違うということだ。昨日都内で対面の会議があった。GAFAは世界中から富を集めていて、スマホを使えば使うほど、お金はこの数社の大企業に流れていくのだというNHKの番組を大学生に説明したら、これまで見たことないような真剣さで講義を聞いていた、と言う。とすれば、講義の面白さもつまらなさも、その人の特性に依存することになる。同窓会があって、今でも山登りをしている古い友人が、体に負担がかからないと面白くないと言っていたが、自分も同感した。近所を散歩しても何も面白くない、ジョギングならば何か達成感があって、どこか面白い。それは体に負荷をかけるからだ。今日振り返ってみても、自分の専門の分野は、脳のどこかに負荷をかけて、いろいろ考えることが多いので面白いのだろう。今の世の中では、苦労をしないこと優しいこと分かりやすいことなどを目標にして、授業をしたり自らもそのような道を選ぶことが多いのだが、実は逆ではないのか。自分の専門や自分の仕事に関わることは目の色が変わり、あーでもないこーでもないと、ある面で苦しんでいる。しかしそれが楽しいのである。それが専門分野という意味ではないのか。新聞に、夕方の職員室のコーヒーが教師をただの大人に戻す(猫背の犬)の句があった。教師の専門である授業をしたり生徒を指導したりしている時の顔つきは、多分緊張し自分にプレッシャーがかかり、負荷がかかっているのであろうが、それが終われば文字通りただの大人になる。そう考えれば、負荷がかかること、それは苦しみではなく喜びなのだろう。少なくとも今日の自分の活動を振り返ってみれば、雑用と専門的な仕事の間には、天と地ほどの差があって、専門の仕事は苦しみながら楽しんでいる。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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