今は土曜日の夕方、といってもまだ外は暑い。昨日今日は真夏の天気で、テレビニュースを見ていないが、多分30度を越したであろう。公開ブログなのであまりプライベートなことは書きたくはないが、昨日秩父の長瀞の温泉に一泊し、今日帰ってきた。秩父の札所を巡って御朱印を押してもらい、温泉に浸りたかったからである。家内がどういう訳か御朱印帳を買ってきたので、札所巡りをすることになったのだが、秩父の札所はもう20カ以上は訪問したと思う。ただ御朱印を押してもらうのは初めてなので、信心深くはないが、多少のご利益はあるかもしれないと思い、といっても一番の目的は温泉である。誰でも温泉に入って美味しい料理をいただければ、この世の極楽だと思って、浮世の憂さを晴らすのは嬉しいに決まってる。特に朝の露天風呂は緑の木々に囲まれてさわやかな風が吹いて、癒しとはこのことかと思うぐらいリラックスできる。それは非日常だからである。日常では朝からお風呂に入れるわけがない、しかし年中日常だけの生活に追われると人は疲れるし、生きている張り合いもない。だからお正月は朝からお酒をいただき酔っぱらっても誰も文句を言わない、それは非日常だからである。一日の中でも夕食の時は、お風呂に入ってお酒を飲んでテレビ番組を楽しみという、昼間の日常から離れるのである。1週間のうち土日は非日常の生活を送ってもよく、1年でも夏休みのような長期休暇も許されるのは、人間の優れた知恵なのだろう。考えてみれば、日常と非日常のバランスの上に我々の生活は成り立っている。新聞に、再入場できぬと書かれた美術展を出て日常に再入場す(武藤義哉)の句があった。美術館で優れた作品を鑑賞するのは非日常で、外に出ればまた日常に戻るのだ。この作者はそれを日常に再入場すると表現しているところが、意表をついて、そして素晴らしい。なるほど日常はいつでも戻れるのか、それは大変ありがたい。どんないたずらっ子でも、両親は最後には許してくれる、それは両親の我が子に対する愛情なのだ。そう思えば、日常とは、いつでも我々を引き受けてくれる慈悲深い仏様のようなものなのか、御札参りをして御朱印の影響なのか、ふとそんなことを思った。ただ問題は、戻る日常があるかどうかである。高齢になると、仕事がなくなり、することがなくなり、日常がなくなっていく。日常がなくなれば、論理的に非日常は生まれない。毎日温泉旅行に行くことは日常にはなり得ず、苦痛でしかないであろう。そう思えば、仕事があり、するべき事があるということは、なんとありがたいことなのか、自分もいずれ日常がなくなる時が来るだろう。そのときは自分で新しい日常を作り出しかないのか、そんなとりとめのないことを考えながら、書斎の窓から南の空を眺めている。
