今は火曜日の夕方、朝から気温が高く初夏というより夏のような気温であった。午前中は市内の学校に出かけ、午後は先ほどまでオンラインに参加した。ただ今でも少し体がだるく熱とは言わないまでも少し体温が高いような気がする。だからオンラインの会議ではあまり頭が働かず、ぼーとした状態で発言したので、文脈に合った意見だったのかどうか不安が残るが仕方がない。たまにはこんな日もあるだろう。会議に参加するとき書斎のエアコンを冷房にしたが、頭は心地よいが体は寒かった。今ブログを書いていても、ちょっとした風邪を引いたような感じなので、あまり論理的な文章は書けないだろう。ふと思う、午前中の仕事も午後の仕事もそんなにワクワクしないが、教育の仕事に関われるだけましというか、世間の誰でも同じだと思う。自分たちのような立場やデスクワークの人たちは、ほとんどが会議やら打合せやら資料作成などに時間を取られて一日が終わっていくのだろう。ところが講演の資料作りや原稿だけはどこか違う。当たり前だが、自分のオリジナルの考えを表現できるので、ルーチンワークの仕事に使う脳の部位が違っているからだろう。だからオンライン会議に参加しながら、隣のパソコンで内職の資料づくりをしていた。左のパソコンでオンラインで発言し、右のパソコンで資料作りをするのだから、同時に考えることはできないから、発言の前後だけ会議の頭になり、その他は資料作りの頭になる。どこかおかしいのだが、それも不調な頭で考えるので資料の内容は大丈夫かとも思うが、それなりに出来上がっている。ブログが書き終わればすぐに続きをやってみたい気持ちすらある。たぶんそれは幸せな状態になるので、脳の不調が癒され快方に向かうような気持がする。だから自分の好きな仕事をやっている時はいろんなことは忘れてしまうのだろう。と言っても好きなことだけして世の中を渡っていくことはできないから、小さな幸せと小さな不幸を交互に味わいながら毎日を過ごしているのだ。新聞に、ありふれた不幸なのかも聖五月(稲田覚)の句があった。聖五月とはキリスト教のマリアの月であることから五月の美称の季語だとネットに書いてあった。なるほど幸せだと思うこともありふれており、不幸だと思うこともありふれている。ということは幸せでも不幸せでもあまり大したことはなく、いつでもどこでも誰でも経験していることなのだ。自分もそうだが、嫌なことや面白くないことがあると、自分だけがなぜと悲観することがある。しかしそれはありふれたことなのだ、誰でも同じ思いをして自分だけがなどということは、ほとんどないのだ。体の不調と言っても、お風呂に入って夕食で一杯飲めばたぶん忘れてしまうだろう。幸も不幸もありふれているとは嬉しいような嬉しくないような、否、それは素晴らしい発見である。
