気づき

今は土曜日の夕方、まるで初夏のような天気なので、書斎の南側の窓を開けて風を入れている。先ほどスポーツジムから帰って、グレープフルーツで喉を潤し、ほっとしたところで二階にある書斎に上がってきた。昨夜は都内で懇親会があり夜遅く帰宅して、しかもなぜかテレビの映画に惹きつけられて、珍しく夜ふかしをしたので、朝5時の起床がきつかった。ただ今朝はどうしてもやらなければならない仕事があった。授業を参観した時の記録、正しくはコメントもしくは感想をメール添付で送ることである。詳細は述べられないが、市の教育委員会に協力して学校訪問などをしているのだが、その関連の仕事である。かなり以前にこのブログでも書いたが、自分は授業参観をしてコメントを言ったり気のきいた助言をしたりすることが苦手である。特に小学校はまるで芸術作品のように先生方がいろいろな工夫をされているので、自分のような経験のないものが口を挟むのは、プロに向かって素人が批評をするようなもので、本末転倒なのである。つい最近までなんとか逃れようとしていたと思う。自分ができるのは、せいぜい論文などのような論理的に割りきれる世界で話ができるのであって、授業のような生きた子供たちと教師が、台本もなく丁々発止と台詞を言う、舞台で織りなす演劇のような世界は、とても難しくてコメントはできない。ところがGIGAスクール構想が日本全国の小中学校に展開されるようになると、自分も市の教育委員会から呼び出されて現場の授業に顔を出すようになった。顔を出すようになると、年に数回はまとまった講演をし、授業のたびに指導と称するアドバイスをしなければならない。ベテランの先生であればそれはたやすいことかもしれないが、自分には重荷であった。あったという過去形で書いたのは、現在は多少ニュアンスが違っているからである。長い長いトンネルを抜けたような印象で、多少自分でもお役に立つことがあるのかと思うことがある。それはどうしたのだ、どうやればそれができたのだと言われても、正確には答えられない。言えることは、ふと気づくことを大切にしている、だけである。気付くことは自分の力ではない。いくら自分が力んでみても、天からの贈り物のような気付きは決してできない。つまり自分の力ではない、天の力を借りているようなものなのだ。新聞に、原つぱに風ひかるとき今そこに詩の神がおはしましぬと思ふ(古山智子)の句があった。詩を作ることとは、そういうことなのか、自分ではない神や天の力の授かりものなのか、言われてみればそうかもしれない。授業という変幻自在な生き物を対象にしてアドバイスをするには、自分の力ではどうにもならない、気づきというあやふやだが自分の知識を超えた知識、それが経験のない自分が太刀打ちできる武器なのかもしれない。ただその武器が鋭い切れ味を持っている場合もあれば、なまくらな刃こぼれするような場合もある。少しずつそれを自分の知識に組み込んでいく作業が、自分の授業参観なのである。指導主事の先生の力を借りながら、その世界で多少ともお役に立ちたいと思っている。いつまで経っても、人は楽にはならない。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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