今は水曜日の夕方、書斎の南側の窓から見える空は薄曇りだが晴れた良い天気で、今日もつつがなく一日を終えようとしている。昨日も一昨日も用事があって遠くに出かけていたので忙しくてブログは書けなかった。私的な用事でなので詳細は書かないが、その2日分の用事がどっさりと貯まっていて、自分の机上にある手紙やらレターパックなどは、まだ開けずにそのままになっている。メールもまだ全部は見終わってはいない。メールを読むだけなら簡単だが、それに付随した色々な仕事が待っている。それを片付けないと気持ちが落ち着かず脳もすっきりしないのでとりかかると、ドミノ倒しのように処理できない駒が倒れていく。ふと思う、それでもこんな仕事があるだけ、こんな用事があるだけありがたいのだ。今日も午前中は市内の学校の評議員会があって学校給食をいただいて帰ってきたら、午前中はそれで終った。授業参観もしたから面白い授業があって、あっと気づくことが色々あったが、メモや写真は撮れないので校長室での会議の時に、配付資料にそっとメモしておいた。手を動かすと後で思い出すかもしれないという淡い期待を持っているからである。帰宅後に、緊急の論文の査読が入ってきて、といっても数日間の余裕はあるのだが、担当者の焦っている様子が感じられたので、今やるしかないと、どこか矜持が働いて、査読をしたら2時間くらいかかった。するとメールが滞る、もちろんいろいろな用事を手帳に書き込んでいるのだが、できない仕事はX印をつけて別の日に送るので、これもドミノ倒しの駒になる。先ほどの授業のメモも、パソコンにファイルとして保存しておかなければアクセスできないからと思いつつも、これも後回しになってドミノの駒になるだろう。人はこんな風にしていろんなことに出会って、少しずつ乗り越え少しずつ後ずさりし少しずつ捨てていくのかもしれない。振り返ってみた時、あんなこともあったと自分を褒めることもあるが、あんなこともできなかったと後悔することもある。こうして年を取っていくのだろう。一日でも一週間でもいろんなことが起きてくるが、とにかくこれが最善だと思うしかない。誰でもそうだろうが、長生きをする人はそのような波を数多く経験しているから、少々のことはなんでもないと思うのかもしれない。自分にはまだそんな悟りのような気持ちには達してない。新聞に、百四歳母生ききって春に逝く(小沢悦子)の句があった。これだけの長寿であれば、どれほど多くの出来事に向かって立ち向かったのだろうか、どれほど多くの努力をしたのだろうか、それが、生ききって、という言葉に凝縮されている。今日のような暖かい春の日に大往生を遂げたとすれば、娘とすれば安堵感で胸がいっぱいになっただろう。本当に生ききったとすれば少しも後悔はないはずである。それは最高に贅沢な生き方である。
