今は月曜日の夕方、大型連休最後の日だが、この時間にブログを書くのはもちろん理由がある。明日は都内に出かけて、いくつかの会議に参加し、最後は懇親会なので帰宅が遅くなるからだ。連休が明ければ、どっさりといろいろな用事が手帳を埋めている。なんとなく気が重いような、そうでないような複雑な気持ちになるのは自分だけではないだろう。しかし当たり前だが、若い人と自分のような老人とは感じ方が違うだろう。年をとるということは細胞が劣化していくことだから、身体も脳もそして気持ちも弱っていくのが自然である。しかし人は誰でも自分の年齢を忘れ、自分の体力を忘れ、自分の知力を忘れ、自分の脳力を忘れ、いつまでも変わらぬとなぜだか思い込んでいるフシがある。ただ旅行に行った後ひどく疲れて昼寝をしてしまったこと、スポーツジムに行って夕飯の後テレビを見ながらぐっすりと寝てしまったこと、好きな小説の本を読みながらうとうとしたこと、知人の名前だけでなく普通名詞も思い出せなかったこと、大切にしていた資料を探せなくて無駄な時間を費やしたことなど考えれば、きりがないほど体力も知力も気力も衰えているのである。ただ自分は地元の教育の仕事やいくつかの団体に関わっているのでそれなりに働いているのだが、それでもたまにはため息をついたり大丈夫かと不安になったりするときがある。年をとっていけば誰でも通る道だからと思いながらも、年齢とともに自己肯定感が下がっていく。自分の親父も似たような傾向があった。自分から見ればとてもかなわないと思っていたが、本人はずいぶん自己卑下していたような気がする。だから自分もその遺伝子を受け継いでいるのかもしれない。逆に少しでも自分を評価してくれてオファーがあると、素直に嬉しくなる。それは弱っていく自分を知っているから、よけいに喜びが増し、自分もまだ大丈夫かもしれないと思うからだろう。新聞に、素晴らしい視力ですねと眼科医の言葉に酔いて出口をまちがふ(出水美智子)の句があった。そうか出口を間違うぐらい嬉しかったのか、そしてその言葉に酔ってしまうくらい有頂天になったのか、年をとるということはまるで幼児のように人生のはじめのページに戻っていくことなのか。もしそうだとすれば周囲から嫌がられない年の取り方をしたい。自分の親父は認知症になってしまったが、いつもおかしなことばかり言って周囲を楽しませてくれていた。認知症にはなりたくないが、無邪気で過ごせるなら、それも悪くはない。
