優しさ

今日は土曜日の夕方、昼間の真夏のような暑さが少しやわらぎ、暖かい春か初夏のような日差しと風が吹いている。大型連休真っ只中で、日本全国の大人も子供も、平和な数日を過ごしているにちがいない。例年なら子供たちと孫たちが我が家にやってくるのだが、今年はいろんな事情で老夫婦二人だけの連休になった。中学生ともなると部活がこの連休中にあってすべてつぶれるという事情なのだが、なるほど先生方も忙しいはずだ、働き方改革はぜひ実施してもらいたいと思う。というわけで今年は車で近隣のテーマパークに老夫婦だけで行った。と言っても遊ぶわけではなく、名物のソーセージを食べ夕食用に買って来ただけである。自分はスポーツジムに行って運動をして、先ほど帰宅したのだが、平日とあまり変わらない生活パターンなのだ。例年やってくる孫たちが来ないので、家内も心配になってLINEで問い合わせたら、小学生は友達や親と遊び、中学生は部活で忙しく、その一人は体調が悪くてどこも行けず家に居ると言う。家内は心配でLINEでやり取りしていたが、大丈夫だよありがとうという短い返信に安心したようだ。それを見て、ふと数日前にあった中学校の公開授業に参加した時の国語の授業を思い出した。それはある文学作品を読んで、登場人物の心情を読み取る単元であった。自分は理系出身だからか、このような曖昧でどうにでも解釈できる学習は苦手であった、というより今でも苦手である。心情を読み取るとはどういうことなのだろうか、どうしてそれができるのだろうか、それがなぜ教科書に掲載されているのだろうか、という単純な問いの答えがわからないのである。その時天啓のように、ある詩を思い出した。それはその中学校から毎月送られてくる学校だよりの中で引用された詩だった。「確かに心は誰にも見えないけれど心遣いは見えるのだ、それは人に対する積極的な行為だから。胸の中の思いは見えないけれど思いやりは誰にでも見える、それは人に対する積極的な行為なのだから」(宮澤章二)。そうかそうなのだ、心情は必ず表に出てくるものなのだ、例え、それがどんな形であれ、この詩のように行為として表出される。それは文章であれ話し方であれ仕草であれ、形式は問わないだろう。だから家内が孫からのLINEの言葉を見て安心したのは、なるほど気持ちや心を読み取ったからである。LINEの言葉で何がわかると言われるかもしれないが、行間にそれが現れるのだ。それは自分の感想や思い込みではなく、国際的なジャーナルに根拠となる実験結果を載せた論文がある。人の心遣いも思いやりも優しさもすべて形となって周囲に伝わっているとすれば、自分ももっと心を磨く必要があるだろう。この世の中は優しさだけでは生きていけない時もあるだろうが、できないとは思いつつ、そう願って生きていたいと思う。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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