春愁

今は火曜日の夕方、というより連休明けの初日と言った方が、今の気持ちを表すだろう。連休明けは子供も大人も、どこかけだるく物憂いような腰が引けているような感じがするのは、全国の誰でも同じだろう。連休もどこにも行かないで書斎で仕事をすれば平日と変わらないと思っても、脳のどこかの部位が、いやそれは違うと、反対しているような気がする。やはりどこかリラックスしているのだろう。ところが今朝、仕事のため車に乗って市内に出かけたら、なぜか大渋滞に巻き込まれ時間がかかってしまった。連休明けからついてないなあと思っても、どうにもならない。ゆったりとした気分でいたら、いきなり嫌味を言われたような気がして、仕事とはこういうものかと自分を慰めた。今日はいろいろ忙しく、それなりに仕事を片付けていった。そうこうしていると、昨日までの連休のことはすっかり頭から抜けていった。人間の脳のキャパシティは小さいから、連休のことと平日の仕事を同時に処理することができないので、脳が仕事一色に塗られたようだ。それはリズミカルなモードになって、ゆったりモードはどこかに行ってしまった。それでよいのだろう。ただ連休明けの初日に感じる感覚は、多分人によって違うだろう。ゆったりモードがなかなか抜けきれず、仕事モードになりきれない人は、両方が重なって少し物憂い感じになるのだろう。文脈は離れるが新聞に、補色混ぜ灰色となり春愁(飯島加津枝)の句があった。連休明けの初日は、多分この俳句のように補色が混じったようなものだろう。その色は白から黒までのグラデーションがあるから、それでその時の気分が表されているかもしれない。できれば白く光った気持ちでいたい。話はそれるが、物理学によれば絵の具などの色の三原色を混ぜると黒色になるが、光の三原色は白になる。人の生き方は、できれば色ではなく光でいたい。光なら自らが輝いて周囲に明るい気持ちをばらまき、逆に色であれば何も光を発することはなく暗い気持ちになる。誰でも思う、どうしたら光になれるのか、どうしたら自ら輝いておれるのか、分かったら教えてほしい。新聞は月曜日に歌壇欄があるので、この句は昨日の新聞から引いた。作者はたぶん別の文脈で詠んだとは思うが、春愁とはなるほど色の補色の関係なのだと思った時、少し謎が解けたような気がした。俳句は素人だが春愁は語数から考えて多分、はるうれい、と読むのだろう。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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