土曜の夕方

今は土曜日の夕方、南向きの窓から見る空はまだ明るい。昼間の時間が少しずつ長くなって、春だなあと平凡ながら感じている。特に今日の気温は高く天気予報は20度だと言っているので、温かいはずである。気持ちまで明るくなって、子供のようにはしゃいでみたくなる。今週は忙しかった、子供が遠足の日を待ち焦がれるように、自分も土日を心待ちにしていた。実は来週も土日まで忙しく、今日明日の休みは自分にとっては、オアシスのような天の恵みのような楽しい2日間なのだ。ところが世の中は自分の都合の良いようにはいかず、来週を過ぎると途端に暇になる。夏が終わると急に蝉の声が聞こえなくなるように、パタンとオファーがなくなり、4月の手帳は真っ白で、職探しの浪人のような気分になる。団体の役員をしていると、企業や役所や学校の先生などとは、忙しさのパターンが違っている。大抵の人間は、忙しければ忙しさを、暇であれば暇なことを不足に思ったりするから、誠にわがままである。忙しさの合間の暇な時間はありがたく感謝できるのは、好きなことを自由にして良いからかもしれない。今日の午前中は研究的なことを、締め切りもなく調べていた、まあ趣味と同じである。お昼はお墓参りに行き、そのまま回転寿司屋で好きな寿司をつまんで帰宅した。そしてスポーツジムに行って汗をかき、帰宅してグレープフルーツを食べて生き返ったような気持ちになった。考えてみれば、これはすべて遊びのようなものである。それは楽しいに違いない。それでも誰でも不平を言ったりするから、どうも人間は始末に悪い。その点、子供はすべてを楽しんでいるような気がする。新聞に、投げ合いとなりし我が家の年の豆(宝満光保)の句があった。子供たちが、節分の豆を投げ合ってはしゃいでる姿が眼に浮かぶ。小学生の低中学年などは、どんなこともすべて遊びにしてしまう。子供に苦しいとか嫌だとか不平だとか思うのだろうかと考えると、それでも子供なりの悩みもあるだろう、だから不登校の子供たちの数が急速に増加しているのだ。子供たちに何が起きたのだろうか、自分の目には、子供たちは遊びの天才であり楽しさに囲まれていて幸せの絶頂にいるとしか見えないのだが、現実はどうもそうでもないらしい。そうするとこの世の中は、見た目では判断できないほど複雑なのだろうか、確かにそうかもしれない。蓋を開けてみれば、誰も同じかもしれない、ということは、現象そのものや表面を見ただけでは、幸せ不幸せ、喜び悲しみ、嬉しさ悩みなどは、判断できないのかもしれない。自分が嬉しいと感じればそれで良いのか、節分の豆を投げている子供にも、同じことが言えるのだろうか。大人も子供も、人の心は分からない。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す