今は月曜日の夕方、晴天が続いて淡い青空が静かな冬の日にふさわしい。明日の夕方は都心に出ているので、今の時間がブログを書くにはちょうどよい。昨日と一昨日は、疲れた心と体を癒すために、新幹線で温泉に行って帰ってきた。老夫婦は時に温泉が恋しくなる。ゆったりと湯船に浸かっていると、どこか浮世を忘れ、上げ膳据え膳の贅沢な食事に、日常生活とは違う豊かさを味わいたいからだ。昨日の夜帰ってきて、今日は朝から一日中、仕事に労力を使った。温泉と仕事は天と地のような差があり、今朝は朝から学校訪問かと思い、日常に戻るのに気持ちと頭が切り替わらず、海外からの時差ボケのような1テンポ遅れたような取り掛かりだった。ところが世の中は良くできていて、仕事にかかれば昨日までのことはすべて忘れさせてくれる。あれは何だったのかとふと思う。幻なのか夢なのか、などとたわいもないことを思ったりするが、一日が暮れる今の時間となると、穏やかな日常生活がこの上なく有り難く思う。いつものように朝食を取って、車で市内の学校訪問をし、戻ってオンラインの会議に出席し、さらにオンラインで打ち合わせをし、書類を作成したり原稿を書いたりして、先ほどオンラインの審査系の仕事を終えた。思えば日常生活とはなんと素晴らしいのだろうか。人は非日常に憧れ、温泉は疲れを流してくれるが、それは本当の回復する力になるのだろうか。人が生きる世界は、この日常生活である。こまごましたことの中に、困ったなと思うこともあれば、うまくいって自信を取り戻すこともある。そんな小さな出来事が自分たちの生活のすべてである。その出来事が、自分を救ってくれているのではないかとふと思った。新聞に、詠みて救はれ読みて傷つき母想ふ今日の波濤のさらに高しも(柳橋正人)の句があった。母親が詠んだ句なのか作者が詠んだ句なのか、母親がつけていた日記なのか誰かの著作なのか分からないが、今は亡き母親を思い出し、現実社会の厳しい流れに身を置きながら、これから先どのように乗り切っていこうかと、思っているのかもしれない。自分の勝手な想像なので的外れかもしれないが、人は時に立ち止まって救いを求めることがある。自分も亡くなった両親がどんな思いで生活していたのだろうと思いを馳せることもあるが、今はただ平凡な日常生活が自分を救ってくれるような気がする。温泉は癒やしてはくれるが、一時の慰めであり、儚く流れゆく夢でしかすぎない。本物の救いは、日々の生活にある。
