今は金曜日の夕方、外に出ると風は冷たいが、空気は春めいて少し気持ちが浮き立つようだ。自宅の小さな庭だが、あちこちに緑の葉っぱが目立つようになったが、それは雑草なのだが、それでも春の息吹を感じる。昨日までは何かと忙しかった。その理由はわかっている。対面での会議がオンラインに代わって開かれるようになって、都心に出かける回数が多くなった。この時期は事業の区切りの季節なので、夕方から懇親会というパターンになることが多い。これまではオンラインの方が良いと思っていたが、久しぶりに顔を合わせたりすると、何か話したくなって、予約してある居酒屋で祝杯をあげたりする。何か昔に戻ったような気持ちになって、あまり強くもない日本酒を飲んだりする。コロナ以前の生活に戻ったようで、オンラインでは顔を合わせているのだが、どこか懐かしさと楽しさが混じって、つい饒舌になってしまう。この年齢になると昔の話をするようになるのは致し方ないが、自分はあまり好きではない。昔は昔今は今、いつでも楽しいこと苦しいことが小さな波のようにやってくるのだ。若い頃も同じで苦しいことはほとんど忘れているので、楽しい思い出しかなく、それを語り合って今の自分の存在を確かめているのかもしれない。誰でも他人に語って聞かせたい物語を持っている。昨日も一昨日も、懇親会でそんな話を聞いた。それもいいではないか、どんな仕事もどんな人も大きかろうが小さかろうが、何かしらの自分の足跡を残して、今に至っているのだ。そんな自分を認めることが、自他共に必要なのだ。新聞に、容赦なき電動のこの轟音に従容(しょうよう)として倒る老木(黒田道子)の句があった。従容とはゆったりとした形容の言葉で、確かに老木はゆっくりと堂々と倒れていく。なるほど出来れば自分もこせこせせずに、老木のように倒れて行きたい。それは最後まで自分らしくありたいという願いであり、誰でも持っているだろう。従容として倒れる老木とは、なんとも惚れ惚れするような姿である。
