努力すること

今は土曜日の夕方、ようやくブログを書く時間が取れた。昨日まで忙しさに翻弄されていた。明日日曜日もまた朝から夜まで用事で詰まっていて、朝はオンラインで講演をし、そのまま都心に出かけてイベントに顔を出し、夕方から打ち上げの懇親会にも参加するので、全く時間がない。そのような状態がこの1週間続いたのは、どこか不思議な気がする。自分のようなものがと書くと、謙遜していると思われるかもしれないが、全くの本心である。あまり縁起は良くないが、息を引き取る前は、まるで健康で元気のある話をして周囲を驚かせると、聞いたことがあるが、そのような状態なのかもしれない。まさかとは思うが、そうならないように自戒したい。とは言っても、4月からは手帳が真っ白で、どうやって過ごすのだろうかと多少の不安もあるが、人は毎日を忙しいと言いながら仕事をして、どこかで一息つくのだろう。2月と3月は原稿・講演・イベントなどで忙しいのは、誠に贅沢なことである。我々の言葉で言えば、それは本業で、事務仕事などの雑用とは違う。だから嬉しく楽しく幸せな一時かといえば、実はそうでもないのだ。どの仕事も同じだが、必ず相手がいる。授業をする場合は子供や学生などの受講生が、企業ではお客さんが、講演では視聴者が、イベントでは参加者が、つまり極めて当たり前のことながら、一人で仕事をすることは不可能であり、必ずそこに人間が介在している。人はそれぞれ個性があり感じ方も、受け取り方も、価値観も違うから、当然ながらギャップが生まれる。このギャップが妙に気になる場合とそれほどでもない場合がある。相手は大人だと顔で笑って心で泣いてのように外と内が違うので、その見極めも難しい。小学生低学年のように心のうちをすぐに表に出してしまう場合は、正直で良さそうな気はするが、それもまた厳しい。手加減はなく残酷な反応が帰ってくるから、先生も傷つくのである。大学生や高校生であれば、授業を真面目に聞いているふりをしながら、内職をしたり、どこか教員を手玉にとっているのだから、これもまた始末に悪い。企業のお客様相手はもっと厳しく、文字通りお客様は神様で、営業担当はその辛さを、居酒屋や自宅で、お酒と愚痴で忘れるのだろう。講演もまたしかり、面白くなければ居眠りをしたり表情にありありと出てくる。別に自分の講演で評判が悪かったというわけではないが、ある会場では80分という長丁場で、その間トイレも行けず視聴者が我慢をしている表情が分かる、それでも飽きずに聞かせるのは他の仕事と同じように厳しい。若い頃うまくいかなかった講演の時は、もう二度と引き受けないと、何度も思った。年をとっても、この時期の講演では、最善を尽くしたとしても出来・不出来があるのは仕方がないとは言いつつも、うまくいった時は胸が踊るような嬉しさがあり、少しでも視聴者が疲れたような顔をしている時は、その後で無性に自分に腹が立ち、気持ちが落ち込んでしまう。どの仕事でも喜びと悲しみが入り混じっているのだ。文脈は離れるが、新聞に、二三羽の寄り来し鳩が餌をもたぬ吾に羽音も高く飛び立つ(深沢ふさ江)の句があった。そうか鳩さえ餌を持たないとわかった瞬間、何の愛想もなく遠くへ飛び立っていくのか。ひょっとしたら餌をくれるのかもしれないと期待したのだが、その変わり身の早さは、人間の世界も同じである。その意味では仕事をすることは、相手に振り回され、相手に評価され、相手に値踏みをされることなのかもしれない。そういう自分も、テレビタレントなどは辛辣に批評したりするので、同じである。総理大臣に至っては、凡人では耐えられないような批判を、毎日毎時間受けている。もっと何かお互いが喜び合えるような仕事の仕方はないのだろうかと思うが、そんな能天気な仕事はない。それでも、どこか生きがいや、やりがいがあるので、努力しているのだろう。人の本性は努力することかもしれない。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す