今は土曜日の夕方、と言っても、もう外は暗くブログを書く時間が遅くなってしまった。別に怠けているわけではないが、いろんな用事をしていると、すぐに時間が経って1日が終わってしまう。思えば1月もそろそろ終わりに近づいて、この前正月が来たと思っていたら来週からは2月になる。時間とは何なんだろう、どうなっているんだろうかと思うが、誰しも同じだろう。自分も何かに追われているようで、しかし仕事がないと寂しいことなので、まあありがたいことなのだが、それでもパソコンの調子が悪くなったりすると、それに取り掛かっていると、もう時間がいくらあっても足らない。IT関連の仕事をしてる人は、相当神経をすり減らしているのだろうと思う。プログラミングなどはわからなくなったら、もう頭をかきむしるような思いをするが、人の能力の限界を知るという言葉が実感として分かる。若い時のそんな気持ちを思い出した。楽しい仕事だけなら時間は忘れてしまう、しかし楽しいことと厳しいことが交互に訪れてくるようだ。昨日は出張で、ある学校で開催された研究会に参加して、授業を参観し最後に講演もしたが、体育館の中は寒くて外に出たら今年一番と言うほどの強風と寒さで、このような中でよく教育関係者が来られているなと敬服した。しかし自分は参加して本当に良かった、何か随分得をした、大きなお土産をもらったような印象だった。それは参観した授業が素晴らしく、もうそれ以外の言葉はふさわしくない、掛値なしに優れた授業だったのである。その詳細を自分がここで述べることは控えるが、優れていることは必ず人に伝わり、幸せの波紋を広げていく。参加した全ての皆さんが、多分そんな感じを持ったに違いないと思う。一言で言えば、生徒たちが、平凡な言葉だが、生き生きと嬉しそうに集中して授業に取り組んでいたからである。大勢の参観者が周りにいても、そんなことは生徒たちには何の関係もなかったような気がする。ただただ目の前の学習が全てだったと思う。それほど集中している授業だった。しかも10クラス以上の全ての授業が優れていた。その時の印象が、今でも脳に焼き付いている。生徒たちが夢中になっていること、その姿は美しい。優れた役者が演じる演劇のように、人を酔わせるような歌手のように、全てを忘れて笑わせる落語家のように、人々を幸せにするのである。新聞に、「教わる」にひそむ「子」の字は窮屈で「学ぶ」にひそむ「子」は健やかで(関根裕治)の句があった。こんな素晴らしい発見をしたのかと思うと、新聞を読みながら嬉しくなった。良い俳句や短歌も、また人を幸せにするのだ。
