仕事始め

今は1月9日火曜日の夕方で、手帳を見ればブログを書く時刻である。自分も昨日までオンラインもなく対面での仕事もなく、主に自宅で研究や仕事や庭いじりをしていた。これはこれで楽しい時間で、論文を書いたり審査の仕事をしたり、手帳のスケジュールを見れば、ほぼ予定どうりの進行でほっと一息ついている。長い休日を心待ちに待っていたのは、まとまった仕事をしたかったからで、今1時間余裕があるからすぐに論文を書いたり審査の仕事をしたりできるわけではなく、頭がその状態にまで達していなければ、何も入って来ず何も出すことはできない。つまり状況と自分の認知状態がほどよい関係になっていないと、頭も働かず手も動かない。そのことは多分誰でも経験しているだろう。長い休日は、そのまとまった時間があるという心の余裕があって、背中から押されているような気掛かりがないことなのだ。それが嬉しい。手帳では今日は仕事始め、午後に教育センターに出かけて打ち合わせをし、その後オンラインで会議があった。その間にメールのチェックをして、添付ファイルを保存し、関連する資料を検索して追加する、そしてあっという間に夕方になってしまう。昨日までの心の余裕はどこにいったのだ、と思っても、状況は待ってくれない。仕事とはこういうことかと改めて感じる。不思議なことに、そのような状況になると脳の認知状態がそれに適応して、そこにある種の快感すら出てくる。人間とは、なんと外的な状況に見事に適応できる生き物なのだろうかと感心する。休日であれば休日のように、仕事があれば仕事のように、研究であれば研究のように、打ち合わせであれば相手に合わせて臨機応変に自由自在に自分を変えることができるのかもしれない。しかもそれがどこか心地良いのだ。昨日までの自分と今の自分は、全く生き方が違うような気もする。永遠に同じ自分ということはないのではないかと思う。季節が移り、雨や雪が降り、時に大地震が起き、暑くなったり寒くなったり、自然は自由無限に変化していき、人はそれに合わせてそれなりに生きるすべを身につけて、なんとかこの地球で命を永らえていくのだろうか。といっても能登半島の大地震で亡くなられたり避難生活をされている方には、申し訳ないと思いつつ、人の持つしたたかな適応能力を発揮して生き延びてほしい。文脈は離れるが新聞に、秋の木は葉が散り尽くす終止形冬木は花を待つ未然形(武藤義哉)の句があった。なるほど自然の循環を終止形や未然形という文法で表現して、読む人の心にすっと入ってくる。こういう人を文才があると呼ぶのだろう。自然の循環システムでは、木も花も確かに環境に適応して自らを変えていくのだから、人間も同じなのだろうと思えば、状況の変化に逆らわない方が良いのかもしれない。90歳の老婆が家の下敷きの柱の中から助け出されたという。奇跡の生還だという。この時の老婆の心境はわからないが、あるがままに身を任せていたのかもしれない。これから先、我が身にもどんな事態が起きるかもわからないが、最大限の努力はするが、後は状況に任せるしかないのだろう。そう達観したい。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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