今日は12月29日今はその夕方、西側の窓から見える空は少し赤みがかって薄青色とのグラディエーションが美しい。文字どうり年の瀬である。後数日で今年も暮れる。平凡ながら月日の経つ早さに、ただただ驚くばかりである。今年はどんな年だったのだろうかと誰でも振り返るが、まあ良い年だったのではないか、正確にいえば良いというより有難いという言葉がふさわしい。自分の年齢でまだ仕事があったり研究ができたり、少しずつではあるが前に進んでいると自覚できることが嬉しい。それは自分の力では到底なく、人の助けを借りたおかげであることは疑いようがない。人は少しでも進歩したと実感できれば生きていた甲斐があったとか、これまでやってきたことは無駄ではなかったと言える。たったそれだけのことで人はこの上なく嬉しくなる。それはオーバーではなく真実である。自分が拙いけれども講演をした後、そのことをいつも感じていた。今年は講演の数が多かったのだが、後悔したり自己卑下したり自尊心が低くなったりすることが少なかったからである。理系の大学にいた頃、大学院生たちと一緒に研究に邁進した。寝ても覚めてもと言ってもいいだろう。しかしそれが何の意味もなかったら自分はこれまで何をやってきたんだろうかと、悔やむに悔やみ切れない思いがするだろう。これまでの努力が何の意味がなかったとすれば、次に進む勇気も出てこないだろう。実はそんな気持ちが、講演をしたり原稿を書いたり出版をしたりする毎に湧き起きて、自分を苦しめてきた。しかしこの二年くらい無駄ではなかったのだ、これで良かったのだと思えるようになった。何がどうなんだと多分読者の皆さんにはわかりにくい表現なのだが、それは研究と実践のギャップと言ってもよいのだが、ブログで書いても自分の気持ちは伝わらないだろう。今年一年を振り返って、講演の後にああ良かったこれで少しは人様の役に立ったかと思うことが多かったからである。そんな風に自分を認めることができたからである。自分と付き合いのある人は、こんなことを言うとほとんど信用しない。外見を見ると自信を持って話をしたり議論したり司会をしたりしているので、そんなことはあり得ないと私に言う。一昨日27日の懇親会でもそんな風に言われた。しかしこれは真実であり、自己肯定観を持てるようになったのはこの二年ぐらいからである。自分のやってきたことに意味があると思えることは、こんなに素晴らしいことなのか、有頂天になるような気持なのである。それは感謝するという言葉がぴったり当てはまる。だから今年一年を振り返って、こんな自分でもお役に立ったかとか仕事があるとか少し新しい知見を得たとか、そのことがいかに自分の心を弾ませるのか、外から見ている人にはわからないかもしれない。文脈は離れるが、新聞に、落ち葉掃く媼(おうな)に時給アップの報(ほう)(天童光宏)の句があった。おばあさんが仕事をしている。落ち葉を片付ける仕事で時給で給料が決まるのだが、その時給がアップしたという知らせを受けて、おばあさんの嬉しそうな笑顔が目に浮かぶ。これで少し暮らしが楽になる、孫に土産の一つでも買えると思っているかもしれないが、それ以上に自分のやっている仕事をちゃんと認めてもらえたという喜びの方がはるかに大きいだろう。これでもっと頑張って落ち葉拾いができる、見ている人はちゃんと見てくれているのだ、自分がやっていることは意味があることなのだ、決して無駄ではないのだという思いが伝わってくるが、それは今の自分の気持ちと同じである。毎日お風呂上がりの十分程度の時間で小説を読んでいるが、その小説は戦国時代の武士の生き方を書いているが、心情的には全く同じである。自分の生き死によりも、自分のやっていることに意味があるのかと問い続けているような気がする。一番残念なのは無駄死にであるが、それが名誉であれば死を恐れることはない。それはそこに意味があるからである。今年一年を振り返って自分のやってきたことも意味があったのだと思えるだけで、これ以上の喜びと感謝はない。本当に有難い年末である。後数日で今年も終わり新しい年が明ける。子どもたち孫たちも元気な顔を見せてくれるのか、布団干しやら料理やら大掃除やら気ぜわしい数日が、老夫婦にとって極上の幸せの時間である。皆様も良いお年を。
