今は土曜日の夕方、午後5時近くになると今の季節では外は真っ暗である。土曜日なのでスポーツジムに行って帰ってきたばかりで、お風呂に入る前の気楽な時間にこのブログを書いている。12月に入ってようやく冬らしい天気になり、気温も時々ぐっと下がって寒いという言葉がたまに出るようになった。ただこの気候変動はこれまで経験したことがないような暖かさで、春夏秋冬の日本ではないような気がする。こんな自然環境にいると気持ちまで揺らいでくる。春夏秋冬つまりゆっくりと気温が下がったり上がったりという変化なので、それが日本人の穏やかな性格を形作っているような気がする。スポーツジムから帰宅する時刻はまだ西空が明るく、明日も良い天気かと思うと気持ちが安らかで、日本は平和でいいなぁなどと、子供のような感覚で歩いていた。西の方角は、綿菓子のような雲が空一面に散らばって、秋らしいというか12月とは思えないような青空であった。そして茜色と黄金色のブレンドした太陽の光が、西に向かって歩く自分の顔に当たってくる。それは何と言っていいのか、お釈迦様に向かって歩いているような感じで、心が優しくなるのである。スポーツジムから自宅までおよそ15分間歩きながらいろんな過去の出来事が浮かんでくる。過去といっても昨日の出来事もあれば今日の出来事もあり、そして突然と若い頃の生活を思い出したり、脳は全く脈絡がない。振幅の小さなさざ波のように、嬉しいこともあればそうでないこともある。それは誰でも味わう平凡な出来事である。昨日は都内で仕事があって、ほぼ丸一日夢中になって取り組んでいた。帰りの電車は夕方だったので立ちっぱなしで、文字通りぐったりして帰宅したのだが、それでもどこか充実感があって密度の濃い時間を過ごした後の解放感があった。平凡だがそんな時の晩酌はことのほか美味しい。今日は土曜日だが、いつものように午前中書斎で仕事をしていたが、先に述べたように有難いと思うメールもあれば少しがっかりするという知らせもある。ただ年をとってくるとその対応が経験的に分ってきて、まあいずれなんとかなる、日にちが経てば状況も変わると思うようになる。何年か前まではそれは気休めの方法だと思っていたが、この頃は本当にその通りだと納得している。今日の夕日はまるで後光が差してるようで思わず手を合わせたくなるような光景であったが、それも自分の気持ち次第だろう。年を取ればそのような心の処世術というか、捉え方に慣れてきて、平穏な気持ちが持続するような方向に感情を少し移動させているようだ。といっても自分のような凡人にはそれほどではないのだが、これからお風呂に入って楽しい夕餉が待っていると思うだけで嬉しくなる。心配事があったらそんなことはないだろうと思うかもしれないが、ほとんどの心配事は小さなことで、自分がそのように勝手に捉えている場合が多い。文脈は離れるが、新聞に、遠くから誰かに呼ばれたそんな気が路面電車がカーブ切るとき(河野多香子)の句があった。誰にも経験がある。カーブを切る時の車輪とレールの摩擦音が、人の声のように自分に呼びかけていると思うのは、自分の脳がそのように作って感じたことに過ぎない。何か気にかかることがあれば、路面電車でなくても何でも、そのように聞こえそのように見えそのように感じるのだろう。そう思えば、ほとんどの不安や心配事などは、自分の脳の作り事かもしれない。
