今は土曜日の夕方、ほぼ今日も終わりの時刻である。特に筆記することもなく特別なイベントもないが、それは平穏無事で幸せな生活の代名詞である。特別ではないということは、いつもの通りで土曜日であっても平日と変わらず、午前中は書斎で仕事をし午後はスポーツジムに行って汗をかき、先ほど帰宅してみかんなどを食べて喉を潤し、そして今パソコンの画面に向かっている。何事もない静かな生活が今の自分にはこの上無く有難いと思う。もちろん生きていれば多少の凸凹はある、メールを見ればこれは少し困ったとか、仕事をすればここは時間が足らないとか、誰でも経験する小さな不幸はある。それはプールで泳いだりジョギングをしたりすれば、すぐに忘れてしまうほどの些細な出来事である。例えばパソコンの調子が悪く何故か文字変換がうまくいかなかったり、これはウイルスにかかったのかなどと心配したりすることもある。そんなことでもなかなか原因が分からず無駄な時間がとられて気が滅入る。あるいは昨日は夕方都内に出かける用事があり、電車の時刻表を書いたメモを居間に置いていたのだが、自宅から駅まで行く時間をうっかり忘れていた。このメモを信用していたら会合に遅刻することになると思って、ぞっとした。そしてふと考えた。もの忘れや何か気がかりなことやパソコンのトラブルなどがあると、どうも自分の年齢のせいではないかと疑う。時間の計算などは、うっかりミスとは言え思考力が低下してきたかもしれず、パソコンのトラブルも考えてみれば原因を推測する論理力が弱ってきたかもしれないなどと、多少の因果関係を推測した。少しずつ少しずつ身体も脳の働きも心の動きも低下してきているのだろうか。しかしそれはおかしなことではなく自然現象である。そのことを意識しているのか、午前中はデスクワークで頭を使い、午後は今日はスポーツジム昨日はジョギングをして筋力や体力を維持しようとしている。心の健康はなるべく心配しないように心がけているが、効果のほどは頼りない。昨日のジョギングは西方向の公園に出かけたが、そこに老人ホームがある。不思議なことだが、老人ホームから外に出てくるお年寄りの姿を見たことがない。これは寂しい生き方だな、まるで部屋の中に閉じ込められているようだ、公園に出してあげれば幼児や子供たちとも会話ができるのになどと思った。自分もやがて老人ホームに入るのだろうか、その気持ちは今の自分には全くわからない。新聞に、緑濃き老人ホームの決め手には娘の家の灯が見えしこと(通力紅)の句があった。気持ちはよくわかる、娘さんの家の灯りが見えればどんなにか心丈夫だろうか考えれば、施設に入るお年寄りは孤独と戦っているのかもしれない。自分は平凡な毎日を送っているが、それはこの上無い贅沢な生き方であり、多少の凸凹はあっても決して不満など言えないし口に出すこともしない。本当に有難いと感謝する。年を取るにつれて、有難いという言葉が常用語になってきた。
