今は3連休最後の日、そして夕方である。この時刻になると、双六の上りのような気持がしてホット一息つく。昨日は曇り空だったが、何年かぶりの所沢祭りが催され、昼食を兼ねて祭りを見学し、その後スポーツジムに行った。町内毎の山車が出て祭りらしい雰囲気で、笛や太鼓のお囃子に合わせて、お面をかぶったひょっとこが踊る姿は、郷愁を誘い思わず惹きつけられる。我が家から歩いて2分もすれば、山車や屋台などが並ぶ大通りに出る。そこからたぶん1キロぐらいは続くのだが、もう大賑わいで文字通り老若男女が出て祭りの気分を味わっている。昔ながらの綿菓子や定番の食べ物屋がずらりと並んでいる。ビールと焼きそばを買って、ごった返すテーブルに隙間を見つけて昼食を取りながら、祭り気分に浸った。ただ自分が見たかった所沢伝統の華麗な和太鼓の音が聞こえなかったので、拍子抜けして一時間ほどで帰ってきた。それでも祭りは晴れやかで、街を歩く人々の心をわくわくさせる。幼子を抱えた若い夫婦連れは幸せの真っ只中にいるようで、見てるだけで嬉しくなる。そういえば十年以上前は、いろいろな団体や町内会や企業などの踊りの行列や、若い人たちの鼓笛隊などが、この大通りを練り歩いた。大通りに寄り添ういくつかの広場では、よさこい踊りや大道芸人のパフォーマンスで、寅さんの映画に出てくるような風情があった。家内も団体に属して、揃いの着物姿で晴れやかに踊って練り歩いていたが、コロナ以降ぱったりと中止になった。それでも祭りの華やかさは変わらない。自分のような年配者になると、雰囲気に浸るだけで昔を思い出したりする。こんなことがあったとか、家内もまだ若かったなどと思いながら、大通りを歩いた。別に今が不幸なわけでもなく、仕事がないわけでもなく、お金に困っているわけでもないのだが、遠く過ぎ去った時を思い出すと元気だったんだなと思う。しかし今、病気をしているというわけでもなく、スポーツジムに行くぐらいなので健康で、特にどこが痛いというわけでもないが、何か物足りなさを感じるのは、なぜだろう。それは言うまでもなく当然のことで、誰でも味わう自然の成り行きである。新聞に、はなやぎを吾も乞うなり吾亦紅(渡辺淳子)の句があった。この作者も少し年配者になったのか、華やいだ昔を思い出し、今の自分にそのような晴れやかな出来事が欲しいと俳句を読んだのかもしれない。ただ今の自分が感じることは、若い頃はただ夢中で、それが晴れやかとかわくわくするとかは、あまり意識しなかったような気がする。若い時には、若いなりの不安もあったり落ち込んだりもする。年を取れば取ったで、それなりの情感が湧いてくるので、同じではないかとも思う。むしろ年をとると、表面的ではないものに対する感性が深くなって、感情の振幅は大きくなるような気がする。むしろ今の自分は、小さな出来事でも感動したり素晴らしいと感じることもあり、逆に何でもないことなのに、ひどく他を気にすることもある。まだ、自分は悟りができていない、というより、高名な僧侶が悟りを開いたというのは、極めて稀な例であって、いくら修行を積んでも、凡人は到達しないのだ。まあ、凡人は、社会人としての良識や倫理観を持ちながら、感情のままに煩悩のままに、生きるのがよかろう。
