今は25日月曜日の夕方、窓から見る西空は薄茜色の雲が筋状に南から北へと浮かんでいる。今日もいろいろあった、市内の用事がいくつかあって、外に出ると、いかにも秋らしく風が爽やかで、やっぱり秋はいいなと思いながら、明るい日差しを浴びて歩いていくつかの用事を済ませた。猛暑で蒸し暑い天気は誰でも苦手で鬱陶しい気持ちになるが、湿度が低く肌をさすっていくような優しい秋風が、気分を明るくさせる。もう9月も終わりに近くなる、あっという間に時間が立っていく。学会シーズンなので土日がすべて潰れて、先日の土日も都内の大学に出かけて勉強させてもらった。文字どうり勉強させてもらって、たくさんの土産を貰ったような気がした。学会等で発表したり講演をしたりする人は、それ相当の努力をし、積み上げて得た知見という財産を、惜しげもなく参加者に披露するのである。聞く方はまるでお店に入るお客さんのように、土産をもらって当然というような感覚でいるが、実は違うのだ。努力に努力を重ねた貴重な宝物を出してもらって味わっているのだから、誠に贅沢な立場なのである。だから土日の2日間また先週の土日も含めて、自分はしっかり聞こうと心に決めた。大学にいて学生指導をしている時代は、そんなことは当たり前で当然のことだと思っていたが、今の自分の立場では、決して当然ではなく、極めて尊い一時なのである。だから時間がもったいなく、オーバに言えば、全身を耳にしていた。すると知識の吸収の度合いが違う、いやそんな表面的な事ではなく、何か本質的な知識がきっちりと受け止められるような気がした。オーバーな表現ではあるが、物事の本質を捉えるということは、こういうことではないかと思う。この発表者はこのことを言いたかったのだと受け止めるには、受け手がそのような聞き方でなければならない。ピッチャーとキャッチャーがボールをやり取りするように、双方がお互いの本心を把握していなければならない。聞き方によって、表面的な情報であったり、キラリと光る知見であったり、あっと驚くような感動をもたらしたりする、場合によって発表者の意図を超えた受け取り方をすることもある。それは発表の背後にある発表者も意識していない発想の原点のようなものに触れることもある。先日の土日の学会で、そんなことを感じて、自分は今までなんと浅い聞き方をしていたんだろうかと思い、聞き方が深ければ奥深い知識を得ることができる、思いがけない気づきが生まれると気が付いた。それは自分の知識との相互作用であり化学反応でもあるので、新たな知識や気づきが生まれて、共同作業で作り出した知識が創作されるのかもしれない。昨日は久しぶりの懇親会があり、ビールを飲み歓談をした。新聞に、新涼に赤提灯の灯りけり(高山洋子)の句があった。新涼の言葉が、秋の初めの涼しげな様子を運んでくるので、秋の季語であることはわかるが、そんなさわやかな夕方、赤提灯のある居酒屋で、誰気兼ねなく研究の話をしたりよもやま話をしたりする喜びを、久しぶりに味わった。もう対面で懇親を深める時が来た。コロナコロナと騒いでいても、灼熱の暑さ、記録破りの暑さと騒いでいても、やがて過ぎ去って、元の生活が戻ってくる人の世は、まんざら捨てたものではない。
