今は、月曜の夕方である、言うまでもなく、明日は対面での会議と講演があって、出かけなければならない、帰宅が夜になるので、今日ブログを書いている。考えてみれば、たかがブログと言えども、なかなか時間を生み出すのは容易ではない。誰しも、普段は当たり前とか、なんだ、この程度か、と思っても、やってみると、意外に難しいことは、経験している。今日も、何回もそんなことがあった。先ほどのオンラインでも、たぶん、こうなるだろう、というより、こうならないなどあり得ないと思うことが、現実に起きている。世の中は、本当に分からないことだらけだ、どうしてだろう、と思うと、それは、思い込みなのだ。これまでの経験からして、こうだと断言できることが、そうならないのは、その思い込みが強いからかも知れない。以前に、自分は頑固な年寄りになりたくないと、書いた、出来れば、ニコニコして世を達観したような顔をして、好々爺になりたい、とも書いたが、なかなかそれは難しいかもしれない。毒にも薬にもならず、大した役にも立たないが、若い者に任せて、機嫌よく応援する爺になることを夢見た、が、小説やドラマのようにはいかない。それは、現実に生きているから、仕事をしているから、組織に属しているから、山あり谷ありの浮き沈みが起きる。オンラインであっても、難しい話もある、厳しい言葉のやりとりもある、それでいいのだ、と言いながら、内心は、穏やかな日々を望んでいる。昨日は日曜日、1ヵ月近くもスポーツジムに行けなかったが、ようやく行けた。帰宅したら、録画している将棋番組などを観るが、大逆転の勝負だった。負けた棋士は、この世がひっくり返ったような怖さを知った、どんなにか指した一手を悔やんだろうか。日曜の夜は大河ドラマを観るが、昨日は、家康が、我が妻、我が息子の自害を、滂沱の涙を流しながも、認めるしか手がなかった。うーん、なんとこの世は、悲哀に満ちているのだろうか、棋士もプロだから、遊びではなく、人生をかけて戦っている、そして、一手のミスで負ける、生きることの意味さえ失うような表情をしたが、心情においては、戦国時代の武士と変わらないだろう。楽をしたい、そう思うのは人情だが、すべてはそうはいかないことも、認識しなければならない。どうすればいいのか、スポーツジムでプールで泳ぐことは、まるで極楽で、棋士や武士に比べれば、天と地のような差がある。小さなことだが、会議でも、浮き沈みがある、それでも、なんとかやりくりをしながら、生活をしている。その中に、どこか生き甲斐とか楽しさとか自己実現の喜びを感じたりするから、人生は分からない。扇子措(お)く話いよいよ難しく(石田わたる)の俳句が、新聞にあった。難しい局面になって、扇子で扇いでいる余裕がない、目も血走っているかもしれない、難しくなると、たぶん、胃も痛むだろう。そのような中でも、生き甲斐を感じ、面白さを味わう人はいるのだろうか、棋士は、そうかもしれない、思えば、勝ち負けなど、紙一重の差であり、プロはギリギリで頑張っているのだ。そこまで出し切って、戦っているので、厳しい世界であっても、離れられないのだろう。この世は、なんと厳しいのだろう、厳しいから続けられる、生きていけると書けば、叱られるかもしれない。
