今は、月曜日の午前10時半、何故ブログを書くのか、これしか時間が取れないからだが、それにしても変則なのは、11時からオンラインが始まるので、20分程度しか時間がなく、自分の計算では、お昼時間に30分、夕方に20分程度を確保して、と考えている。推敲時間がかかるので、1時間では無理で、1時間より余分な時間が必要なのだ。筆の向くままなので、書きっぱなしなら1時間だが、誤字脱字があるので、チェックする時間が必要だ。土曜日に書いたのに、と思うが、今週の金曜土曜は夜遅く帰宅予定なので、木曜日の夕方を確保しているのだが、そうすると月曜日くらいには書かないと、と思い、計画した。月曜日は、新聞に歌壇欄に俳句や短歌が掲載されるので、それを引用することが慣例なので、よし、この小刻みな20分や30分を使おう、と決意した。たかがブログで、そう気張ることもないのだが、初めてのことは、どこか不安があるので、そう書くことで、逃れられないからである。さて、何を書くのか、今週はまだ何も始まっていない、昨日は、日曜日だが、オンラインのシンポジウムに参加したので、勉強になった。この内容は面白く、自分とは専門の違う先生方の話は、なるほど、と素直に頷ける、これが自分の専門に近いと、どこか粗が見えてきて、そうではない、と言いたくなるから、人間とはやっかいな生き物だと思う。相手を認めること、そうありたいと思いつつ、いや、そうではない、と少しばかりの知識を持ち出して、議論したくなるから、本当に専門とは何か、良いことはあるのか、ネットで調べれば、それ以上の知識は直ちに得られるのに、と思うこともある。自分の知らないことの知識に触れることは楽しいし、得をした気分になるが、何故だろう、本音は、知識ではなくて、心のひだに触れるとか、感情が揺さぶられるとか、目から鱗のような、革新的なのだが、言葉は優しく、胸にストーンと落ちるような、対話を期待している。そんな無理な、と思いつつ、人間の心情とは、そのようなものではないか。ここらで、下書き保存しておこう。今は、お昼休みだが、再開しよう、1時から用事が入っているのだが、先ほどのオンライン会議の余韻が脳裏に残っている。内容もさることながら、その場の雰囲気とかやりとりの優しさや刺々しさが、残るのだ。どんな会議でも、山あり谷ありで、小さな振幅なのだが、それが、最も人間にとって、印象に残っている。人は、本質的には、理性的ではなくて、感覚的な存在ではないだろうか。特に、歳を取ってくると、切った張ったとか、勝った負けたとか、そのような世界から少しずつ距離感がでてきて、あいまいさ、ぼかし、などのように、油絵から水墨画に移っていくようだ。何か、そんな感覚が似合ってくるのは、やはり日本人だからなのか。今は、もう、締め切りに追われ、ウーンと考え、というよりも、気楽なほうが良い、と思う反面、原稿とか講演とかセミナーなどでは、ここは、これまでにはない新鮮な内容で、あっと思うような出来ばえにしたい、とも思う。どちらも、真実なのだが、少しづつ少しづつ、水墨画のほうに、収束していくようだ。新聞に、摘む人も刈る人も無く夏蓬(よもぎ)(一色正明)の句があった。ヨモギの草か、草餅を食べた思い出はあるが、特に感慨はないのだが、いかにも初夏らしい風情があって、すぐに胸の中に入ってくる。季節は移っていく、人は時の流れのままに、年老いていくようだ。この時間で終わったので、50分で書けた。
