枯れ木

今は、木曜日の昼間、午前11時半なのだが、ブログを書こうと思う。週末の感覚で言えば、金曜か土曜の夕方が良いのだが、日程が難しい。最近は、土日が塞がってしまい、なかなかスポーツジムにも行けない。どうしてだろう、歳を取ってきているのに、なぜか、手帳が埋まってしまい、自分の時間が削られてしまう。昨日の午前は大阪で講演をして、昨日の午後5時くらいに帰宅して、6時からのオンラインセミナーに間に合った。もし遅れたらどうしょうと思ったが、無事にこなせた。自分がホスト役なので、居ないと、とんでもないことになる。何か、綱渡りで、生活しているような気がする。何かの拍子で、躓いたら、電車が遅れたなどでも、後の歯車がすべて止まって、事態は大事になって、狂ってしまう。少なくとも、自分にとっては、そのような感覚だが、世の中は、どこかで、手を差し伸べてくれるようで、無事に通り過ごせた。今日の午前中は、論文の査読があって、といっても、事情を説明しないと理解してもらえないが、10編以上の査読だから、労力がかかるのだ、昨日の大阪からの新幹線の中で、パソコンに目を通したのだが、ふと、うとうとして、はかどらなかった。手帳を見ると、今日の午前がベストだと思って、査読を続けた。もちろん、何日もかけて、査読を継続しているので、最後の確認だが、論文を書いた研究者は、これが命と言ってもよいので、粗末にはあつかえないのだ。だから、論文には、著作権がある、というより、それ以上の存在で、研究者のすべてと言ってもよい。チャットGPTなど、なにおか、いわんや、という気持ちがある。それで、研究者の本心に触れるような気持で、査読するので、時間がかかるのだ。それなら、働き盛りの研究者、論文を書きまくっている若手、若手の中には、まるで、戦争をしている兵士、というか将校のような人もいる。それは競争の激しい分野なのだが、そんな若手に、査読を依頼すればいいではないか、と思うが、午前中の査読は、事情がかなり違うのだ。詳細は書けないが、自分がチェックするしか、他の手段がない。ただし、若手には、少し問題点がある。自分の研究への信念や論文査読の視点が厳し過ぎて、なかなか採録しない傾向がある。それは、論文誌の全体から見れば、問題点なのだ。その点は、自分のような年配者になると、角が取れてきて、まあいいではないか、この点を評価しよう、この点に面白さがある、などのように、欠点よりも、良さに目が行って、査読するようになる。長く生きていると、そんなに目の色を変えるほどでもない、と鷹揚に構えることができる。新聞に、一本の枯れ木に声をかけて行く空に向かって生きたんだねと(菊池秀悦)の句があった。我が身は枯れ木になっているけれど、ずっと長い間、まっすぐに空に向かって伸び続けてきたのか、その姿に、頑張ってきたんだねと、ふと声をかけたくなったのだろう。老いても、まだ世の中に役立つことはある、いや、いっぱいある。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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