今日は月曜日、週の始まりだが、ブログを書くことにした。明日は、大阪に出張で、夕方も夜も時間が取れない、ホテルで夕食を済ませたら、すぐに寝てしまいそうで、今書くしかない。今日も、4つのオンライン会議があって、ずっと画面を見ていたから、身体は疲れないが、脳や神経が疲れる。黙って座って画面を見ているだけではない、この歳になっても、発言したくなり、言わなくてもよいことでも、つい話して、後で反省することになる。生まれついた性分なのか、馬鹿な性格なのか、もっと優しく、もっと柔軟に、と思いつつ、つい口を出す。ただ、後々になってみると、あの時は、苦い思いをしたとか、相手にも悪い気分にさせたとか、と思うが、どこかで好転していることが多い。いつも、迷うのだ、ここで相手に合わせようか、いや、言うべきことは言おう、という2つの思いが、葛藤するのだ。楽な道なのか、苦い道なのか、人はいつも迷う。若い時でも、歳をとっても、会議などで、自分の意見を言うのは、なんとなく迷いがある。それでいいのだ、それが人の生き方だろう、などと思って、慰めている。すぐに忘れるといいのだが、少し尾を引くこともある。床に入っても、思い出して反省することもある。昔から、変わらぬ性癖で、家内から反省病だと言われる。小説だのテレビドラマだの、この世の中は、そのような筋書きが見えないので、もがきながら、迷いながら、生きているのだろう。今日は、画面の見っぱなし、目は疲れる、脳が疲れる、心も疲れる、会議の合間に、梅雨空で小雨が降っていても、傘をさして、近所を回る、弘法大師の社、スーパーの前の小川、ローソンの通り、などを一周しても、5分か10分ほどだが、それでも、次の会議に出て発言しよう、という気持ちになるから、運動とは、素晴らしい疲労回復剤なのだ、ふっと頭の重みが消えていく、今日は、そんなことを3回繰り返した。元気が出ないと、人はついてこない、発言も弱くなる、メッセージが相手に届かないのだ。1階の居間に降りて、といっても、会議の合間は、30分から1時間程度だから、疲れたと言って、お茶やコーヒー、栄養ドリンクを飲んだり、スナック菓子を食べても、頭や心は回復しない。身体を動かすことが、最も効果的なことを、今日、体験した。歳を取ってくると、毎朝、飲む薬は決まっている。高血圧などの薬だが、ほとんど習慣なので、効果があるかどうか、分からない。それより、今日の夕飯は何か、と家内に聞く方が、心が弾む、それまで頑張ろうか、と思えば、なにやら子供じみている。新聞に、朝ごとに飲む錠剤は手のひらの生命線に添いつつ転ぶ(岡田孝道)の句があった。年配になると、気持ちが分かる、生命線に注目した所が、面白い。生命線が、この錠剤にゆだねられているようで、自分の命も永くないのか、かろうじて、薬の力を借りて生き永らえているのか、と思う気持ちと、目の前の楽しいこと、夕飯のおかずは、晩酌は、風呂上がりの小説は、などを思う気持ちと両方ある。歳を取るとは、枯れていくことと、子供に戻ることと、両面があるかもしれない。世に無常を感じることと、それでも生きる喜びを感じること、その両面は、矛盾しない。淋しいだけでは、生きていけない、身の回りに、喜びはいっぱいある、せめて、両面を味わいたい。
