木漏れ日

今日は、4月下旬にしては、肌寒い日で、まだ夕方なので、窓から見える空は、明るい。先程、外から帰ってきたばかりだが、なにか冬のような気配がして、道行く人も、どこか背を丸めて行き交う。近所に大きなスーパーがあって、徒歩1分程度だから、もう大きな台所のような親近感がある。買い溜めなどは、死語に近く、よほどの天変地異でも起きない限り、あり得ない。スーパーの前に小さな社があって、自分も含めて、年配者は、よく手を合わせている。願い事もあれば、すがることもあれば、感謝の報告もあるだろう、いくつになっても、これで卒業ということはなく、この世の中は何かしらの出来事が襲ってきて、人を苦しめたり、ごく稀に、喜ばせたりする。その社の前に、昔からの井戸があって、弘法大師の井戸らしく、教育委員会の石碑が立っている。その横に、大きな石があって、その石に座って、総白髪のお爺さんが、杖を持って、長い時間じっと通りを眺めていた。総白髪のお爺さんとは、まるで自分のことのようだが、もちろん自分ではない。長い時間、外が明るい間は、数時間以上、じっと眺めていたので、たぶん近所の人は誰でも知っている。スーパーの前だから、大勢の人が出入りするので、その光景や、道路を行き交う人々や車などを、よく飽きもしないで、眺めているな、と思っていたが、最近見かけなくなった。何か、あったのだろうか、と他人事ながら、少し気になる。家内に話したら、たぶん外に出られないのだろう、と言うが、元気がなくなったのか。その老人の目には、何が映っていたのだろうか、言葉は良くないが、みすぼらしいとは言わないが、洗濯したての服ではないことは確かなので、侘しい生活だろうと思う。思えば、そんな老人は、市内でも大勢いるのだから、珍しくもないが、どこかで、誰かが、見かけなくなった、という近所の噂話もよく聞く。しかし、それは、明日は我が身とは言えないだろうか、絶対に避けることはできないが、もしそのような、哀れな人生が待っているとすれば、歳を取ることは、なんと侘しいものだろうか。このことは、先のブログでも書いたような気がするが、何か救いの手はないのか、など、他愛もないことを考えていたら、新聞に、こもれびは日かげで生きるものにしか与えられないやさしいひかり(関根裕治)の句を読んで、惹かれた。そうなのか、スポットライトを浴びた若い頃とは違って、老人になるにつれて、だんだん人が去り、日影のような生活になるが、それは、木漏れ日のようなもので、その光は、まるで光の芸術のようで、そして人に優しい。木漏れ日の光に包まれると、誰でも、ほっとして、心が優しくなる。木漏れ日のような老人とは、なんと素晴らしい存在なのか、枯れてきて、この世に疲れた人に、安らぎを与え、生きる勇気を与えるとは言わないが、そっとでもよいから、生きていたい、と思わせる不思議な力を持っている。自分はとうてい無理だが、人々が社の前で、手を合わせるのは、願い事だけでなく、木漏れ日のような優しさで、そっと生きたいという気持が、あるからかもしれない。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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