今は、火曜日の夕方、まだ外は明るいが、春とは言えない寒い1日で、外に出ると、まるで冬のような天気だった。こんな日は、気持ちも晴れず、なにかしら憂鬱になるが、北陸の人々の気持ちが分かる。毎日の出来事には、嬉しいこともあれば、面白くないこともある。昨日は、都内の事務所に出かけて、事務所で訪問客と対面して、帰宅して、夕方、所沢駅で待ち合わせ、駅近辺のレストランで懇談した。レストランという洒落た店ではなく、魚を主とした居酒屋で、地元の店で飲み会などは、久しく経験できなかったが、予想通り、盛り上がった。都内の打ち合わせも、夕方の懇親会も、楽しい話題で、会話が弾んだ。この時期には、職場が変わった、新しい名刺を交換する、新しいプロジェクトが立ち上がるなど、春という季節に相応しい雰囲気があって、どこか気持ちまで若くなる。今日は、その逆で、なんとも予想を外れて、思うことが思うようにならないことが重なって、文字通り、気が重かった。それはなんだ、と聞かれても、公開ブログでは書けない、誰でも、自分が落ち込んだ内容を話したくないというのは人情で、家内ですら話題にしたくない。そんなことがあってもよい、と思えるのは、歳を取ったからで、まあ浮世のことは、光もあれば影もあり、表通りもあれば裏通りもあり、嬉しい時も悲しむこともあるが、それがそんなに大したことではないので、そうかで済ませるのだろう。この世の事は、およそ、その程度のことで、このブログでもよく書くが、さざ波のような小さな山と谷が来て、喜んだり落ち込んだりするが、やがて、すぐに忘れてしまい、毎日をこなしていくのだろう。明日は、かなり忙しく手帳が詰まっている、明後日は、他県に出張で1日中が埋まっている。だから、忘れてしまうのだ、ただ時間が過ぎていくだけではなく、そこに葛藤もある。ぼーっと過ごすなら時間が過ぎ去るが、何か仕事をこなさなければならない、それには、プラスもあればマイナスもある、いつもプラスだけにいかないことは、言うまでもないが、こうして、人は、自分とも戦いながら、時を過ごしていく、もし何もなければ、それはそれで苦しみになる、というより、最も辛い時間だろう。そうすると、人は毎日、戦いながら生きているのか、新聞に、この痛み耐えて生きねばならぬのか歎異抄読む余裕なきまま(後藤忠国)の句があった。なんと言えば良いのか、歳を取るごとに、足腰が痛み、病気にかかり、入院を余儀なくされることが、普通なのだから、苦しみに耐えることが、晩年の時の過ごす方だとすれば、なんと、この世は寂しいものか、仏にすがって、生きる気持ちを呼び起こすのか、それも分かる、この読者は、それすらもできない苦しさに耐えているようだ。ただ、短歌を詠んで、自分の苦しみを新聞に投稿したのだから、そこが素晴らしいではないか。自分も、ブログに書いて、喜怒哀楽を文章にしているが、それは、楽しさはもう一度味わい、嫌なことは早く忘れる、ような気がする。人は、外に出すことで、いつまでも囚われないで済むのではないか、短歌に読むことも、ブログに書くことも、自分をもう一度見返すことなので、すると、大したことではないと、メタ認知できるのではないか。学習の観点からは、振り返り、リフレクションと呼んでいるが、確かに、子供も大人も、生きる勇気をもらえそうだ。
