今は、3月29日水曜日の夕方、書斎の窓から見える西空が、まだ明るい。平凡ながら月日の経つ早さに、驚かされる。もう3月も数日で終わり、新しい年度を迎える。ブログは、昨日書く日なのだが、例によって、時間が取れず、今日に持ち越した。3月中は、忙しく、年度末と言うこともあるが、理事会などの会議や、学会の大会や研究会、原稿や報告書等の締め切りなどが重なるので、忙しいのだが、およそ、3の倍数月は、なにかと儀礼的な会議が重なる。次は6月だが、会議や締め切りなどで、せかされる、そうして、いつの間にか時間が経過していき、嬉しいことも、苦しいことも、いろいろな思いを乗せたまま、快速電車のように走り去る。これが人生か、と嘆息しても仕方がない、忙しいだけ幸せなのだから、と思えば、反面、感謝する。今日は、数週間ぶり、だと思うが、スポーツジムに行った。ずっと行けなかったから、何か新鮮な感じがしたが、このジムには、小さいながらゴルフ練習場があり、プールがあり、筋トレマシーンがあり、ヨガ施設があり、と豊富な設備が揃っている。以前は、筋トレをよくやっていたが、あれは我慢比べのような精神力が必要なので、今は中断している。ランニングマシーンよりも、晴れた日に街中をジョギングするほうが、周りの景色に癒されて、楽しい、時に、口笛を吹きたくなるような気持にさえなる。この年齢になると、楽しい時間の積み重ねが、生きている時間から引き算すると、極めて貴重になることは、言うまでもない。だから、筋トレやランニングではなく、下手なゴルフの練習をして、その後、汗を流すために、プールに入って泳ぎ、ジャグジーに浸かりながら、街中を見晴らし、リゾート気分を味会うほうが、良い。下手なゴルフと書いたが、その通りで、下手な、という形容詞を付けないと、とても人様には言えない。誰でも、同じような思いをするのかと、新聞を読んで知った。みづからを運動音痴と人前で言へたる歳となりにけるかも(原田浩生)の句の作者も、自分と同じような心境らしい。運動音痴は、小中学生の時、特に男の子にとっては、勉強ができないこと以上に、悩みであって、それはコンプレックスである。中高生の時代は、勉強の成績で優劣が決まり、厳しい振り分けが始まる。世の中に出ると、学校の通信簿とは別の厳しい評定が下される。業績という名の評価によって、否応もなく烙印を押され、それが生活レベルまでも規定するのだから、同情などの余地はないのだ。しかし、人生の終わりのページに近づくと、足腰が弱ったり、入院生活を送ったり、仕事を引退したり、老後の文字が現実味を帯びてくると、誰もが同じような生活を送る。つまり、勝った負けたではなく、誰もが似たような平等的な世界に住むことになる。すると、運動神経の良し悪しだの、学校の成績のことなど、ほとんど意味がなくなってくる。意味があるのは、日々をつつがなく、できるだけ楽しく過ごし、子や孫が幸せになることを願い、大波が来ないように、平穏であることぐらいだろう。野心に燃えて、などは、どうも相応しくない。振り返ってみれば、自分は、特に大きな不安はなく、徐々に歳を取っていくようで、この地に住み、このままで生きれたら、これ以上の贅沢は要らない。それは、枯れていくことなのか。
