今は、水曜日の夕方、というより外は真っ暗なので、夜である。昨日の火曜日に書きたい所だったが、夕方都内で懇親会があって、久し振りに対面で、飲み、食べ、談笑して、時間の経つのを忘れた。3時間か4時間近くか、腹蔵なく語り、昔を思い出し、4人だが、全員が打ち解けた。楽しい飲み会とは、こんなことだったのか、コロナ禍を過ごして、こんな時は来ないと思っていたが、人は人で救われる、自分はなんと素晴らしい人と付き合っているのだろう、と我が身の幸せを嚙みしめた。そんな時間を過ごしたので、ブログは今日になって、さて何を書こうかと振り返った。珍しく、お昼は、蕎麦屋で、とろろ蕎麦を食べた。これには理由がある。数日前に、テレビで黒い蕎麦の実を取って、これを打ち、延ばして、細く切り、ゲストが食べる光景を見たので、無性に食べたくなって、昨日は無理だったので、今日に延期したのである。元来、蕎麦が好きなのだが、蕎麦屋まで行って、ということは、コロナ禍のせいもあって、ここ数年間は無かった。だが、一昨日の番組を見て、どうしても今日には、と決意したのだが、たかが蕎麦くらいで、と自分でも苦笑したが、人間とは、こうもたやすく、外部の情報から影響を受ける生き物らしい。数日前、朝から曇天で、ずっと寒い一日があったが、その時は、なんと、もう冬か、身も心も凍る、とずっと気分が晴れなかった。天気の晴とか曇とかは、心の天気とまるで同じようだ、ということは、人は、外部から、天気までも、まして人との付き合いや仕事上で、すべて左右されることになる。小舟が海の波に揉まれて、左右に動いている、この波がさざ波なら、小春日和で舟を漕ぐのも楽しいが、少し大波が混じってくると、舟の動きも穏やかではない。人間とは、なんと小さな存在なのか、と思う。新聞に、落し蓋(ぶた)されているよう曇り日はこころに秋が染み込んでくる(富見井高志)の句があった。秋の風情が、落し蓋のお陰で、外に漏れることなく、自分の心の中に入ってきて、しみじみ味会う、また、その秋の寂寥感も分かるようだ、という句だとしたら、人はやはり周囲の情報や、広くは環境によって、影響を受けるものらしい。ここ数日は、きれいな青空で、爽やかな秋そのもので、どこか心も晴れ晴れする、ということは、人はいつも冷静、とか、絶対に、ということは無く、絶えず、揺れ動き、喜んだり、悲しんだり、笑ったり、怒ったり、という感情の生活をしているのか、うーん、どうも解せない。それでは、まるで、人は無力だとしか言えないではないか。どうも、そうではなさそうだ、人がこの世の中を動かしている、人の力に期待しているのではないか、チェンジと言ったのはオバマ大統領だった、それは、人間への賛美であり、信頼ではなかったのか、とすれば、どんな事態になっても、必ずチャンスは来る、事態は好転する、と、彼は信じていたのではないか。朝の来ない夜はない、とよく聞くが、その通りだと、この歳になってみると、分かる。同時に、それは、夜の来ない朝はない、と論理的には言える、それは夢が叶ったとしても、慢心してはいけない、という教訓にもなるだろう。振り返ってみれば、これもその通りである。まあ、この世のことは、心配いらぬ。
