散り際とは

今は、6日土曜日の夕方、スポーツジムから帰宅して、一息ついた所である。昨日まで、神戸に出張して、3泊4日の長旅が終わった、いろいろな事があった。コロナ禍の中、多くの制限があったが、数年ぶりの対面でのSSHの成果発表会が行われ、審査を終えて、自分は別件のため、もう一泊して帰宅したのだが、伊丹にある大阪空港を利用して、快適な旅だった。歳を取ると、新幹線での長時間は疲れる、飛行機なら国内では1時間程度で済むので、気持ちも軽くなる。コロナ禍以前のように、若い高校生のポスター発表を聞き、質疑応答すると、こちらが元気をもらい、研究も理解できる。残念ながら、近隣の高校生は、コロナ感染のため、参加できず、SSH校の発表校だけの参加になった。研究は、年々、進歩しているようで、新しいデバイス、測定機器、アイデア、分析など、知らないことが多かった。数理的な分野の進化も大きく、今流行ているデータサイエンスも、そのプログラムも、自由にこなしているようで、高校生は少しアドバイスすれば、グングン伸びていく様は、甲子園の高校野球と変わらない。審査員の中では、自分も長老になり、次々と若い審査員が入っている。科学技術の進歩は劇的に速く、研究の真っ只中で仕事をしている若手の准教授などが加わって、議論すると、なるほど、自分は不勉強だ、と実感する。もう、自分は終わりつつあるのか、と思い、少し寂しい気もするが、若手の研究者を見守ることも、長老の仕事でもある。専門誌や雑誌などを読むと、次世代の研究者が活躍しており、完全にバトンは渡されたようで、ならば、年寄りは何をすればいいのだろう、と思う。先般も、長い間務めた審査員を辞退して、若手を起用してほしいと、連絡した。自分は、審査系も、学会系も、団体系も、すべてが交代の時期になった。散り際をきれいにしたいと思うのは、男の美学と言えばカッコよいが、そんな年齢なのだから、当然のことで、美しくありたいと思うのは、研究も生き方も表現の仕方も、すべての面において、自然な人間の心情である。あの人は、最後は見苦しかった、と言われたら、すべての評価はマイナスになる、最後まで、片意地を張ってでも、真っすぐな生き方でありたい、と願っている。新聞にこんな句があった。杖突いて機械の田植見てをりぬ(津田和敏)、今は現役を退いて、機械植えの様子をじっと見ていて、頭に去来するのは、何だろうか、手植えの時代か、忙しかった若い頃か、今は何もすることもなく、隠居のままに、所在なく見ているだけか、杖なしでは徒歩もままならぬのか、あるいは、散歩の途中か、田植えで働く人を元気づけ、見守っているのか、今の生活に満足しているのか、あるいは寂しいのか、そっと自分の姿を重ねてみる。久しぶりの長旅を終え、日常生活に戻ったが、心は、神戸の華やいだ国際会議場と、静かな書斎を、行き来している。晩年をきれいに生きたい。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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