今は、金曜日の夕方、いつものブログのように、正面が西窓なので、太陽がまだ西空にいて、陽光を注いでいる。今日は、真夏日かと思うくらいで、予報では最高気温28度などと報じている。明日は、朝から夕方までオンライン研究会があって、机から離れられず、その後に所用があって、ブログが書けないので、今パソコンに向かっている。そしていつものように、スポーツジムから帰ってきたばかりで、運動をした後は、自分も体力はまだ衰えていない、気分もさわやか、などと、まんざらでもない高揚感があるのは、脳内ホルモンの分泌のせいだろう。外が明るいと、気持ちまで明るくなるのは、誰も同じだろうが、うつ的な状態では、いくら明るくても、それが、逆に作用するようで、どんな美味しい料理でも、砂を嚙むような感じで、何も味がしないらしい。味覚とは、なんと素晴らしい天からの贈り物か、とよく思う。昼食は、だいたいパン食なので、いつものパターンだが、夕食などは、時にうーん、うまい、と声を出すこともある。歳を取っても、食の楽しみは、ある、というより、大いにあるし、生きている甲斐がある、と言っても過言ではない。だから、入院はしたくない、極めて薄い塩分、味のないような味付け、栄養バランスという、およそ人間味のない、秤で測って料理を作るような、理科実験室で試験管で調合しながら作った料理のようで、耐えられそうもない。テレビでも見ながら、少しだけアルコールを飲みながら、今日の様々な出来事を思い浮かべて、老夫婦で会話しながら、平凡だが、それが、楽しい夕餉の光景である。病院の食事のまずさは、両親が老人病院に入っていたので、食べたことはないが、よく知っている。いくら認知症とは言え、料理のまずさや美味しさは、覚えているだろうから、入院とは、我慢させ、諦めさせ、従うことを学習させる施設のようで、そんな経験はしたくない。そう考えれば、病院ではなく、自宅でお風呂上りに、美味しい料理をいただくのは、なんという恵だろうか。新聞に、トンカツを切る音キャベツ刻む音(中路修平)の句があった。いい音だ、サクサクとトンカツを切り、キャベツをトントンと小刻みに叩くと、ホカホカの料理が出来あがり、頬が緩んで、真っ白いご飯と一緒に喉を通ると、アー幸せ、と言うかどうか分からないが、どこかそんな庶民の嬉しそうな顔が目に浮かぶ。学生の頃、もうこれ以上の絶品はないと断言できるような、カツ丼の食堂があって、教員になっても、よく通った。この文章を書くだけで、口の中が湿ってくる。平凡だが、食べることは良きことだ。
