この前の水曜日にブログを書いて、間違いに気づいて、木曜日の早朝に修正した。トルコをイランと書いてしまい、木曜の朝の寝床で、変だと気付き、すぐに確認してトルコに書き直した。規模は極小ながら、公開なので、自分の無知をさらけ出してしまったのだが、修正した時、すぐにブログを書いて、この修正文を出そうと思ったくらいだから、少し恥じたのだろう。たかが、ブログではないか、と思う反面、確認することの大切さを肝に銘じたが、論文では、当然ながら、念には念を入れるから、このようなミスはないが、もしあれば、始末書ものか、研究者として失格の烙印を押される。今は、土曜の夕方、西日を書斎から眺めていると、もう何事もなく、ミスのことはまったく気にならない。スポーツジムから帰宅して、柔らかい日差しを浴びていれば、心が安らかになるが、木曜の早朝にミスを修正をした時に、すでに問題は解決しているのだ。こんな些細なことなら、直ちに自分のミスを認めるが、それが大きなミスとか事故になると、人はなかなか対応が難しい。昨今の、遊覧船事故における管理体制のミス、公金の振り込みミスなど、すぐに対応しないことで、ますます世間の非難を浴びることになる。人の噂も75日というように、いずれ忘れられてしまう。それは、古い細胞は、体外に排出され、新しい細胞が生産されるからだという、脳科学の専門家である福岡先生の動的平衡論で、証明されている。このブログでも以前に紹介したが、熱烈な恋愛もいづれ飽きが来る、我が子の死という非情の悲しみも、いづれ忘れる日が来ると、言う。それは、ある面で、ほっとする理論である。いつまでも忘れなかったら、誰も生き延びることはできないだろう。研究は、何故か忘れることは稀のような気がするのは、絶えず新しい知識を求める営みだからかもしれない。新聞に、鍬一筋田圃一筋燕来る(中山道春)の句があった。この農家は、畑仕事やお米作り一筋に仕事をやって来られたのであろう、今年も燕がやってきて、この仕事ができる喜びを感じている。農業も研究も同じで、長い間やっていても、毎年同じということはなく、新しい気付きがあって、その道に自分が立っているだけで、有難いと思う心境になる。一筋の言葉が尊い、そして燕を見るだけで、感謝するのだろう。その長い年月に、喜びも悲しみも成功も失敗もあっただろうが、悲しみや失敗はなるべく早く忘れ、毎年新しい気持ちで、農業一筋に取り組むことが大切なことは、言うまでもない。動的平衡論では、人は絶えず新しい細胞に生まれ変わってるのだから、古い思いに囚われて悔やむのは、愚の骨頂であり、心配することは何もないのだ。
