今は、土曜の夕方、と言うか、連休さなかの土曜日で、観光地も久々の人出で賑わっているらしい、とは言うものの、例年のような訳にはいかず、元通りに回復するには、時間がかかるようだ。昨今では、コロナ禍、戦争の惨状、観光船の沈没、数年前の白骨の発見など、憂鬱なニュースが多く、なんとなく元気がない。新聞を見たら、これからの老後の生き方の本の広告があって、無理をしないで、好きなように生きよ、と見出しに書いてあった、なるほど、著名な精神科医の著書だけに、説得力がある。また数日前の新聞に、コロナ禍の自粛ではない老人は行くべき場所はどこにもないのだ(増田福三)の句があったが、多くの高齢者は、頷くだろう。行くところもなく、所在ない時間をどう過ごすのか、まして独居老人は、話す言葉も、スーパーマーケットの店員さんだけだ、と嘆いた句もあった。今日行くところがある、きょういく、と、今日用事がある、きょうよう、の2つが大事だと、よく言われるが、老人の過ごし方は、高齢化社会の日本においては、重要な課題である。さて、どうしたものだろう、と我が身を振り返ってみると、どこか違うような気がする。このブログも、スポーツジムから帰って、書斎に向かっているのだが、身体を動かした後は、爽快感があり、脳内ホルモンの分泌のせいか、前向きである。が、決して、この世の中は、いつもブログで書くように、都合の良いことばかりは起きない。こんなはずではなかったのに、とか、どうしてうまくいかないのか、と嘆くことも、歳を取っても、現実は多いのだ。現役を引退した身分は、気楽な人生だろう、と若い人は思うかもしれないが、先の新聞で書いたように、所在ない生き方は、認知症になって介護施設に入ったようなもので、何の楽しみもないのだ。自分は、まだ仕事を持っている、いくつかの団体の役員をしている、だから、まったくの引退ではないのだ、というのは、少し違う。それよりも、原稿を書く、出版する、研究する、講演する、などの自分からチャレンジしていることが、大切なのだ。何度も書くが、決して成功ばかりではない、講演をして、ソッポを向かれたり、欠伸をされたり、自分でも、これはまずい、と感じた時は、もう二度と講演は、引き受けない、と何回も経験した。原稿も出版も同じで、会心の作品はなく、むしろ後から、挫折感のほうが多いのだ。それでも、書いている。先の精神科医の著書では、無理をせず、好きなように生きよ、と言うが、ほとんどが無理であり、好きな、というより、不満足の結果のほうが多い。先に紹介した、きょういく、と、きょうよう、もどこか、自分には違和感がある。それは、外から与えられて満足を得る、スタイルだからだ。若い頃から、長い間、ずっと研究をしてきた、研究とは、惰性ではなく、外から与えられるものでもなく、そして、うまくいくばかりではない。的外れや思い違いや、なんと自分は浅はかなのだ、と嘆くことも多いのだが、それでも離れられないのだ、それは、新しいことにチャレンジしているからかもしれない。野球選手の打率が3割だと言えば、極めて優れた選手だが、7割は失敗しているのだ、その時、もう嫌だから止めよう、と思う選手はいないだろう、なんとかしようと挑戦する仕事が、野球選手である。野球に限らず、年齢に限らず、その意欲さえあれば、生きていける。自分は、研究者の端くれだったせいか、まだ挑戦意欲だけはある。しばらくは大丈夫かもしれない。
