楽しむ

今は、日曜日の夕方、通常は土曜日が多いのだが、昨日は時間が取れなかったので、1日遅れのブログ書きである。今週はオンライン会議が多く、というより長時間続く会議で、疲れたが、充実感があった。それは、やって良かったという心地よい余韻があって、数日間満たされた気分であった。やはり、仕事はうまくいった方が良い、そして満足できる仕事をしたら、少しお役に立ったか、と自分を認めることができる。と言っても、世の常は、うまくいくことと悔やむことが入り混じって、子どもが遠足に行く時のような、喜色満面という訳ではない。ウクライナ情勢などは、火力に勝るロシアがいづれ制圧するだろうとは予測しながらも、不利な戦況を知るにつれ、面白くなく、そのような報道を見るたびに、どこか憂鬱になっていく。異国だろうに、と思いつつも、まるで贔屓の野球チームか、片思いのように、下降線のグラフを見るような心境になる。自分だけかと思っていたら、家内も、隣近所の人達も、似たような気持らしい。なんとか、奇跡的な逆転はできないか、とか、天災がロシアにやってこないかとか、この極悪非道のプーチンめ、と怒っても、どうにもならないことは分かっている。それなら、マイナス感情を持って生活することは、意味がないではないか、楽しいことだけを考えるか、とふと思った。似たような考えを持つ人も、世の中にはいる。新聞に、われに酒ありてうれしや呆(ほ)け妻をねかせて呑んで床に入りたり(太平丈一)、の句があった。認知症になった奥さんを、ようやく寝かせて、ほっと一息ついて、大好きなお酒を飲んで、布団に入った、好きなお酒が飲めて嬉しい、少し酔ったか、妻は静かに寝たのか、ゆっくりと心おきなく寝ることができて、有難い、と作者の声が聞こえそうである。傍目からは、少し気の毒な境遇と思うかもしれないが、本人には、そうではないのだ、人の幸不幸のものさしは、決して同じではない、と知れば、プーチンめ、と怒ったり、ウクライナの子どもをなんとか助けたい、と焦ったり、あのメールの内容はおかしい、と不平を言ってみたり、することは、馬鹿げている。若い頃は、否、つい数年前までは、仕事の事で、心配や不満や怒りで、眠れないこともあった、考えてみれば、つまらぬことだが、その時は、それで頭が一杯なのだ。傍から見れば、どんな辛い状況でも、有難いと思ったり、楽しむこともあるのだ、ウクライナの子どもが、避難している地下鉄の長い手すりを滑り台にして遊んでいたという報道があったが、なるほど、子どもは、今を生きている、今を楽しんでいる、と感銘を受けた、大人も、見習いたい。楽しいこと、嬉しいことだけ、見よう、どんな辛い時でも、楽しみはあるのだ、その瞬間の積み重ねが、生きることだとすれば、後で振り返ってみたとき、楽しい思い出で満たしたい。自分も家内も、残り少なくなってきた時間なら、辛いとか哀しいとか不平などで汚したくない、せっかくの時間を、喜びで埋め尽くして、歌いたい歌を歌い、すべてを出し切って、大往生したい。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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