平凡

今は、土曜日の夕方、スポーツジムから帰って、一息ついて、書斎にいる。およそブログを書く曜日や時刻が決まっているので、書き出しの文章もどこか似てくる。この時間は、心が安らいで、2階の窓から見える夕空も、郷愁をさそうような優しさがある。今週はどんな週だったのか、と思っても、平凡な人間には、小波が押し寄せる浜辺のようなもので、小さな出来事がやってきて、それなりに気を揉んだり、嬉しがったりしながら、時が過ぎていく、というパターンの繰り返しである。それで、良いのだ。大きな出来事、それは不幸と隣り合わせだから、それほど有頂天になることでもなく、芸能人のように、大ブレークした後では、坂道を転がり落ちるように、世間から忘れられていく、とするなら、小さな仕事の継続のほうが、幸せだろう。庶民も同じで、平凡であること、それは幸福の代名詞で、そこそこの仕事があり、ジョギングやらスポーツジムで身体を動かし、夕食は少しのお酒を飲み、夜はテレビを楽しみ、疲れとアルコールで眠くなったら、やわらかな布団に身を包む、それで十分である。ブログを書く時は、少しだけ、その幸せ感に浸る。机の横にCDプレーヤーがあって、昔、新聞の広告にあった、日本の愛唱歌160選のCDを購入して、その曲をかけて、かすかに耳を傾けながら、少し物憂い感じで、時間を過ごしている。鐘の鳴る丘、里の秋などの曲は、日本人なら、誰でも郷愁に誘われるだろう、そして、あの文献は、とか、あのメールの対応は、とか、昼間の仕事が、頭をよぎっていく。時々、ウクライナのことを思い出すが、もう惨状を映像で見たくはない、ニュースでも、どこか心が塞ぐので、人は、どんな時でも、優しい出来事、心安らぐ音楽、明るい夕空、などを求めるのだろう。心地よい句はないかと新聞を探したら、てっぺんは春風の中すべり台(原山桂子)、の俳句があった。滑り台の上は、少し高いから、春の風がさっそーと吹いているのかもしれない、今日のような初夏っぽい天気には、ピッタリの句で、子供の喜ぶ顔が目に浮かぶ。新聞を探す、と書いたが、正しくは、気に入った句があると、スマホで写真を撮って保存しているから、パソコン画面から引き出している。こんな呑気なことを書きながら、人生、そんな楽しいことばかりでもなく、多少のことは、いろいろある。ウクライナのことでも、いろいろ腹立つこともある。しかし、すべて、この世で起きたことは、そのまま受け入れるしか手はないのだ。それは、気休めでも、逃げることでもなく、それが事実なら、そのまま受け止め、多少の不平や不満も言いながら、時を過ごしていく、それが平凡だが、賢い処世術だろう。平凡は、幸せと同義語だから。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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