人間の学び

今日は土曜の夕方、ブログを書く時刻である。ただ、審査系の仕事があって、少し遅れてた。仕事があることは有難いことで、特に、原稿とか講演とか出版などは、自分の得意な分野だから、楽しみでもある。少し宣伝めくが、「AIと人間の学び― 壁の向こうで答えているのはAIか人か?」の単行本を、つい先日に出版した。264ページを執筆するには、時間がかかる、しかし、それは時間を忘れる、の言葉通りで、出来あがれば、それは自分の分身か、子供のようなもので、嬉しいのが人情だが、人間は薄情にできていて、amazonにアップされれば、店頭に並べば、それで興味が薄くなり、次の企画に目が移る。ウクライナの惨状が止まらない、隣国のポーランドに避難した人のインタビューがあった、本当に仕事がしたい、欲しい、と口々に言う。人は、どんな状況に置かれても、恵みを受けるだけでは生きていけないのだ、自分が何か他にすること、仕事と呼んでもいいし、要するに、何かをすること、である。何かをすることとは、結局、他からしてもらうのではなく、自分が他にすることである。それが、喜びにつながり、それが生きていること自身になる。恵みを受けるだけでは、認知症になって、施設に入って所在なく生きているだけと同じである。別の国に避難した人は、ウクライナに戻りたい、と言っていたが、あの惨状であっても、何かをしたい、という根源的な言葉のような気がした。コロナ禍が続いて、観光地、飲食店など、閑古鳥が鳴くような状態だったが、少し戻ってきたようで、先に伊豆の温泉に行ったとき、ホテルマンは、忙しそうに、そして満面の笑顔で、お客さんに対応していたが、それはまぶしいような、人間本来に戻ったような表情であった。新聞に、こんな句があった。芸人が地獄這い出る苦闘知り涙の我も苦労人なり(谷吉修一)、言葉は要さないだろう。大勢のお客さんの前で、笑いを取ったり、芸を披露したり、今は、その仕事がめっきり減った、というより、人が集まってはならない、というから、仕事にならない、さぞつらいだろう。自分のすることがない、奪われる、人は、パンだけでは生きていけないのだ、他にすることがあって、ようやく生きていける。上海の都市封鎖も、異常としか言いようがない、完全に密閉して、それで人が生きていけるのか、そこにあるのは、人間不在の、国の指導者の過信による独断でしかない。人間とは何か、人は、どうして生きていけるのか、先の新刊書のタイトルに、AIと人間の学び、という人間という言葉を使ったのは、自分の心に、この問いがあったからである。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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