今日は土曜日、そして今は、夕方なので、ブログを書くにはもってこいの時刻である。今週は忙しかった、それは嬉しい響きでもあるが、人は、自分の力を精一杯出せる仕事では疲れは感じないし、充実感があることは、誰も経験しているだろう。今でも、その余韻がある、土曜日でも、午後2時間半、ほぼ3時間近く、休憩なしのオンラインイベントに参加した。高校生が研究発表するイベントだが、その発表に対して、専門家がコメントして、という高校生版の卒論発表会のようなものだが、ただ、新鮮味と初々しさが違う。その発表は義務ではなく、選ばれて発表するので、卒論とも違うし、大人でもない、だから、初々しいと書いた。若さとは、こういうことなのか、と思わせるのは、まだ世の中の厳しさも知らない、という危うさではなく、どんなことでも、前向きで、無鉄砲なことはあるが、がむしゃらで、それは甲子園で白球を追う球児と同じである。自分の年齢から見ると、光輝いて、眩しいくらい、生きている、その時には、何も思わないが、中年になり、老年になると、それは夢の世界と言ってもよい。これは、今の境遇を嘆いているのではなく、今は今でそれなりに生きているが、感じ方、活動の仕方の質が違う。軽やかなくつ音たててただいまと息まで見えそう幼らの声(田上蓉子)の句が、新聞にあった。我が子が外から帰ってくる、玄関で、ただいま、と言う声は、何か良いことでもあったのか、弾んでいる、その声を聞くと、明るいプレゼントをもらったような気がしたのだろう、母親の喜びの気持ちが伝わってくる。大人は、子供から元気をもらい、生きる力をもらっている。ウクライナの惨状は、気持ちが沈むので、あまり見たくはないのだが、地下鉄をシェルターにして多くの人々が生活している光景の中で、子供が遊ぶ姿をカメラが捉えた。地下鉄は深く,長い斜面になっている、その斜面が子供にとって、長い滑り台になって、格好の遊び場になって、弾んだ声を出し、一杯の笑顔だった。子供は、今がすべてであり、地下鉄が生活の場であり、そこで精一杯生きている。大人は、前途を悲観したり不安に思ったりするが、もう止めよう、子供を見よ、子供が大人を救ってくれる、そんな気がする。
