今は、土曜日の夕方だが、ブログを書くことにした。その理由は大したことではなく、明日は日曜日だが、夕方に時間が取れるかどうか不安なので、という場当たり主義の結果である。土曜の夕方は、どこか気が楽で、午前中は予定した通りの原稿を書いて、それは優雅な時間のようで嬉しい時間であった。原稿を書く、なんと贅沢なことを、と自分でも思うのは、原稿は依頼されて書くものであっても、自分の自由な意思であり、自分の作品であり、それは趣味の世界と同じだからである。お昼は、家内と所沢の駅ビルにある店に行って、買い物をした。駅ビルの中は、渋谷か新宿か銀座かと思うほどの賑やかさで、マスクをしている以外は、すべてコロナ禍以前に戻った感がある。駅ビルの一角に、ピアノが置いてあって、腕に覚えのある人は自由に弾ける、その光景に出会った。家内と聴き惚れた。自分たちの年代に分かる、若い頃を思い出せるメロディーが、しかも華麗な演奏ぶりで、プロではないかと思うほどの技量で、多くの人を魅了した。凄いじゃないか、こんなプロ級の人がいるのか、と思って、しばし恍惚とした時間を過ごした。ツタヤで家内が本を買って、自宅に戻ったら、日差しは西に傾いていても、まだ暖かく、その柔らかな温もりに浸りたいと思って、小さな庭にある、少しばかりの雑草を取った。もう冬に近いせいか、雑草と言っても、以前に抜き損ねたもので、弱弱しいのだが、年末前に少し庭をきれいにしようとした。それでも、晩秋の日差しは、花や木々に天の恵みのような慈愛を与えているようで、自分もそこにいることで、小さな喜びを感じる。そうか、今日は土曜日か、明日は日曜日で好きなことができる、と思えば、書斎に入っても、何も苦労を知らない子供のような気分になる。新聞の歌壇から句を引く。ただ今とお帰りの声秋の暮(瀬古修治)は、選者も、玄関でのただ今の声と、部屋からのお帰りの声が、小さな幸せを感じさせる、簡明ないい句だと誉めていたが、自分も素直に同感する。なにげない日常の一コマが、実はこの上ない有難いことなのだ。まるで作家気取りで、原稿を書けることだけで十分幸せで、買い物ができるだけで、ピアノの演奏を聞けるだけで、雑草を取るだけで、十分に生きる価値がある。
