審査と甲子園

昨日は、オンライン打ち合わせもあったが、締め切りの原稿と論文審査があった。締め切りと言っても、自分で決めた締め切りなので、少し余裕をもって見積もっているのは、誰でも同じだろう。手帳に予定を書いているので、今日は、これを片付けようと思い、取り掛かるが、自分にとって、午前中は貴重な時間で、外からの仕事に充てたくないのだが、時間の配分では、朝から取り掛かるしかない。朝食後に2階に行って、論文審査を始めるが、いろいろな雑念が浮かんでくる、あまり面白くない、自分の興味と合わない論文の場合、頭に入ってこない、左横の窓から外を見る、今日も暑そうだ、隣の家の向こうにある駐車場の車が太陽の光を反射しているなど、とりとめのないことを考えたりする。勉強に飽きた子供や、興味のない授業では、教室の窓から外を眺めて、空想にふけるが、それと同じだと苦笑する。時々、1階に降りて、お茶かコーヒーを入れたりしながら、なんとか一通り審査が終わる頃、ようやく気持ちが前に向いてきて、おや、これは面白いアイデアではないか、このデータは貴重ではないか、など気が付く。当たり前だが、審査する場合、論文と正面を向いて対峙しないと、見えないのである。よそ見では、空想では、雑念では、本質が見えないのは、当たり前である。ふと思った、甲子園球場では、一般客はなく、例年と違う高校野球なので、自分は今年はテレビで観ていない、忙しいこともあるが、関心が薄れるのである。夕食時のニュースの中で、その光景が画面から飛び込んでくる、それは、ホームに飛び込んで砂ぼこりを上げ、負けて泣き、勝って飛び上がる光景で、そうか、高校生にとって、観客など関係ないのだ、青春のすべてをかけているのだ、真正面から勝負しているのだ、と自分が恥ずかしくなった。新聞に、こんな句があった、泣くことのできる若さや夏の雲(入田葉子)、若さとは、まぶしいほど素晴らしい。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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