昨日は神戸の国際展示場の大きな会場で、SSHの生徒研究発表会の審査をした。その研究レベルの高さは、例年と変わらない、もしくは向上している。久しぶりに審査メンバーと対面で会話をし、マスク越しであるが、笑顔が見える。人に会うことは、やはり心を和ませ、自分が優しくなれる。例年のように、高校生と研究についての質疑をするが、若い高校生から息吹をもらい、つかの間の高校教師になる。自分は、数学・情報分野を担当したが、純粋数学探究、高度な情報技術があり、そのまま学会で発表できるレベルもある、他方では、技術の追求よりも、どう社会に結びつけるか、どう役立つか、の研究もある、どちらが良いとは言えないが、自分は社会との関わりに惹かれた。他の審査員も同じような視点であった。帰りの新幹線は、昨日のブログで書いたように、動く仕事場と言ってもよく、隣は空席なので、パソコンを気兼ねなく使い、ネットに接続して、調べものができる。なるほど、新幹線もよくできている、と思いながら、ふとSSHのことを思った。規模を縮小したとは言え、会場には1000名くらいの生徒や教員がいたと思うが、優秀校の発表でも、該当する生徒から大きな歓声は起きない、黙声なのか、嬉しいはずだが、表情には出せないからだろう。昨日と今日の2日間に分散したが、似たような光景ではないか、優秀賞なら喜びの声を高らかに出せばいいのに、と思うが、出せれないし、出してはいけない。黙の世界とは何だろうか、人の本性を押さえ、隠し、閉じ込めることなのか。先の研究内容で、社会に関わる研究に軍配の手が上がったのは、人は他によって生き、他に役立つことで自分の存在がある、からではないか、動く仕事場もよいが、どこか寂しい。あのSSHの高校生は、どういう気持ちなのだろうか、寂しくはないか、仲間で会った時、喜びあうのだろうか、高校生らしい、躍り上がって喜びを爆発させる姿は、今年はない。黙とは、なんとむごいことなんだろう。病床や命には、代えられないが、高価な代償である。
