気付きの意味とは

昨日は土曜日だが、学会の研究会で、午後1時から4時半まで、オンラインで机にしがみついていた。文字通りパソコン画面に釘付けされ、休憩時間は10分も無かった。オンライン接続のトラブルも多少あったが、内容に惹き付けられた。研究報告は、デジタルに対応する授業研究と言ってよいが、いくつか気付きがあった。この気付きの言葉は、昨日の研究会でも頻繁に出てきたが、それは素晴らしいことで、1人1台端末、デジタル教科書など、新しいメディアが登場すると、新しい気付きが生まれる。否、メディアだけではない、世の中と自分との関わりが起きると、すべて気付きが生まれる。講演依頼があって、アーあれか、と既にある資料で十分だ、と思うと、気付きは生まれない。少し違う内容、それはテーマでも対象でも良く、特に苦手な内容であればさらに良いが、その違いが気になって、文献を調べたり、資料を見たりするようになる。ただ、そのような意識的な行動で得た情報だけはなく、無意識的にスッと入ってくる情報があって、それらが、不思議につながってきてストーリができる。昨日の内容も、そうだ、と手を叩きなるような気付きがあったが、他人から見れば、何を喜んでいるのだ、と思うだろう。講演のストーリ、論文の構成、原稿の流れなど、どれをとっても、始めに考えたことと違ってくることが多い、それでいいのだ、計画したことと同じだということは、その間に、新しい気付きがないからだ。考えてみれば、授業をする教師も、授業で学ぶ子供たちも、計画通りではなく、何が起きてくるかわからない、新しく生まれる瞬間瞬間に生きており、教師と子供との間に生まれる気付きを、自分の知的財産として蓄えているのではないか、それを学びと言うなら、真正の学びと言ってよいだろう。昨日は、発表者も自分も、そのような気付きの意味を共有したような気がした。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

コメントを残す