失敗とは

昨日も都心に、審査系の会議で出かけた。今朝も朝8時からオンライン会議に参加したので、ブログを書く時間が遅れた。今週は3日も都心に出かけたので、時間が厳しく、郵送書類の整理ができないで、机の上に書類が溜まっている。しかし出かけると、いろいろな刺激があって、脳が活性化する。ただ帰宅してから忙しくなるが、これも世の常である。刺激とは他人との対話のことであり、そこから人が学ぶのは、当たり前のようで当たり前でない。対話の中に知が埋め込まれているのは、すでにブログで書いた通りで、審査前に書類を読むことと、審査中に対話することの差は大きい。書類を読むのは個の認知であり、対話は状況における認知だからである。対話の中で、失敗は確率であることを、昨日知った。失敗すると、どんな小さなことでも気持ちが塞いで、あれは自分の知識が無かったから、判断が鈍ったから、場の雰囲気を掴めなかったから、見通せなかったら、視点の方向が間違っていたから、思い違いをしていたから、などいろいろ原因を考えて、自分の欠点を探したり、相手のせいにしたりして、あまり生産的でないことに、心の無駄遣いをする。自分も帰宅してから、小さな失敗をして反省するのが常だが、もっと楽に生きたいと思うことがある。しかし、失敗は確率なのだと言われれば、確率的に生じる現象とすれば、葉っぱが落ちるのも確率で、ある頻度で生じる現象であり、それは葉っぱの弱さのせいや、風のせいにすることもできるが、多くの葉っぱの中で落ちる葉っぱは、確率だと考えたほうが、気が楽だ。物理学は決定論で片づけるので、何が原因かと探すが、人はそれほどきれいな因果関係はなく、ぼんやりとした関係なので、いっそ確率的に生じると悟ったほうが、分かりやすい。とすれば、失敗をしたことにこだわる必要はなく、そこから先のほうが大切なことは、頭では分かる。分かっていても、つい自分を責めるほうが多いが、確率なら自分にあまり責任がないので、気楽になれる。昨日は、対話の中で、そのことを学んだ。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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