日常の平穏とは

昨日は、さて何があったのか、手帳を見ると、3つのオンライン会議があり、月に1度、正しくは5週間に1度の床屋に行った。こう書くと忙しそうだが、電車に乗って移動する時間がないだけ、時間の余裕がある、つまり、平穏な日だった。と言っても、このブログで書くように、中身は楽しい話題もあれば、そうでない話題もある。それが、通常の仕事の世界であって、楽しいだけ、苦しいだけ、ではないので、救いがある。オンラインで議論していると、すっかり団体役員の顔になって、頭がその方向に切り替わり、いろいろな考えが浮かんでくる。自分の所属する団体のスタッフと打ち合わせをしていると、どこか頭の神経がピーンと張って、獲物を狙う鷹のような鋭さを感じる。というと少しオーバだが、古来から外で男たちは狩猟をしていたので、その遺伝子が流れていて、それが働くのだろう。うん、そうしよう、とか、そのやり方で、彼にお願いしよう、ここは無視しよう、とか、企業では経営企画室、戦時では大本営の作戦本部、のような雰囲気があるのは、規模は違っても中身は同じだからである。誰も仕事をする時、同じような思いをしているだろう。家にいる時と外にいる時は、違う顔になっているはずである。が、コロナ禍で、家の内と外の区別がつかなくなって、コロナうつ病や、家庭内のいざこざが起きる。そこは、大人の知恵が必要で、これまでと同じでは、当然に問題が生じる。昨日の夕方、久しぶりの人から励ましのメールが届いた。たった、それだけで、自分はまだ大丈夫、心配することもない、落ちこむ必要もないのだ、と安心して心が弾んだ。いくつになっても、外で喧嘩して帰宅したら、母親に大丈夫と言われ、また元気になって外に遊びに出かける子供のような姿になる。日常とは、頑張る、失敗する、励まされる、また元気を出す、というような繰り返しなのだろうか、それが、日常であり平穏ということかもしれない。

投稿者: 赤堀侃司

赤堀侃司(あかほりかんじ)現在、(一社)ICT CONNECT 21会長、東京工業大学名誉教授、工学博士など。専門は、教育工学。

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