昨日の午前は、ある団体のオンライン審査だった。審査なので、事前の書類に目を通したが、得ることも多かった。審査ということは、当然ながら、審査員の目に触れるわけだから、申請者は、頭をひねり、額を寄せて、議論したに違いない。その書類から、内容を吟味する役目が審査員なので、紙の向こうにある真意を汲み取らなければならない。審査における議論とは、その眼力というか、ある意味で知力の勝負のような、目には見えない電磁波が、画面の向こうに飛び交っているような気がする。質問をする側も、それを受けて立つ側も、別の視点で切り込む側も、それぞれが、やはり凄い知力をもっていると感じる。その上で、相手を柔らかに受けて、確かにその通りだが、この視点からは、このような考えも出てきます、という、文字通り紳士であり、相手への気遣いも感じる。こんな芸当は、自分にはできない、なるほど、大人の議論、成熟した議論、とはこのようなことか、と勉強になった。自分は司会役だったので、発言の無かった委員に発言を促すと、その内容も、さすがで、場を読み、メタレベルから判断し、時間も配慮して、というから、きれいで美しい。満ち足りて、オンライン会議は終わった。考えてみれば、書類を読んで、そうか、このような方法があったか、とヒントをもらい、審査会に参加して、委員の皆さんの議論から、多くの示唆を受けて、いったい自分は何をしたのだろうか、と考えた。ほとんどすべての知識を他人からいただいている、というか、もっと高度な知恵や生きる上で必要な汎用的な知を、受けている。日常生活で活動する、それ自身が、高度な知恵を学ぶそのものではないだろうか。放送大学に入学することだけが、大人になってからの学びではない。日常生活、日常活動それ自身が、小さな生涯学習と呼んでいいのではないだろうか。
