昨日は、月曜日で定例の所属団体の会議が午後あり、午前中は地元の中学校の評議委員会があり、夕方は研究会があった。中学校の評議委員会は対面の会議であったが、その他はオンラインである。研究会では、自分が発表したが、3年間か4年間をかけた研究の総まとめのような内容で、自分は、データ分析をしている時、楽しくて仕方がなかった。研究仮説通りの結果で、きれいな結果に自分でも驚いた、というより、興奮した。仮説通りだったのだ、と言っても、内容を言わないと分からないだろうが、知的興奮とは、このようなもので、本人しか味わえない喜びで、分析をしている期間は、それだけで頭が密になっている状態で、寝ている間もデータやグラフが浮かんでくる。やはり、4年前の自分の研究的直観は正しかったのだ、と思うと、それは小さな発見と呼んでもいいだろう。昨日は、その研究の初めての発表だった。オンラインであっても、自分の研究の喜びが伝わるだろう、と思ったが、実は、その知的興奮は冷めていた。自分は、なんと薄情な人間なのか、と思ったが、事実その通りで、なるべく早く話を切り上げようと思ったくらいである。ふと思い出した。福岡先生という脳科学の専門家の講演記事の中で、生命は流れている、という魅力的な言葉に出会った。通常、食料を体内に入れて、血肉となりエネルギーとなると思っていたが、どうもそれだけでなく、細胞自身が新たに作られていくと同時に、古い細胞は分解されて捨てられる、つまり、細胞は常に新しくなっている、と言うのだ。それならば、今日の自分は、昨日の自分と細胞レベルでも異なって当然、1ヵ月前にあれほど知的興奮した細胞は、すでに排出されているのかもしれない、と思えば、納得できる。団体の仕事でも、個人的なことでも、自分の好都合のことばかりではなく、不都合なこと、嫌なこと、苦手なことも起きるのが自然である。昨日も、いくつかあったが、明日には、その細胞も古くなって捨てられる、と思えば、何でもない。池に石を投げれば、始めの波の大きな振幅は、やがて小さくなっていく、それならば、いつまでも脳に残して気に病むことはない、と思ったのである。そして、午前に訪問した、はつらつとした中学生から元気をもらったので、新しい細胞に生まれ変わっている。
